江戸時代の最高の医学者の一人であった杉田玄白(1733〜1817年)も晩年は便秘、脱肛に悩みました。
「解体新書」を翻訳し近代医学への道を開き、また「蘭学事始」を著わした杉田玄白は、当時としては長寿である85歳の生涯を全うしました。ここでは、玄白の痔についてではなく、その養生法、晩年の人生観、最後の心境などについて、少し断片的ですが立川昭二著「江戸人の生と死」から引用します。
玄白69歳
玄白は、古希の前年に、「子孫のため七不に因んで
『養生七不可』を書き、
@昨日の非は恨悔すべからず
A明日の是は慮念すべからず
B飲と食とは度を過すべからず
C正物に非れば荀しくも食すべからず
D事なき時は薬を服すべからず
E壮実を頼んで房を過すべからず
F動作を勤めて安を好むべからず。
こう戒めたあと、あとがきで生来病弱であった自分が
こんにち健やかでいられるのは、病身が治ったのではなく、
養生によるものであると語る。
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杉田玄白木像 国立国会図書館
デジタルコレクション「岩波講座日本歴史、第7」から転載 |
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玄白晩年
「晩年玄白は、『九幸』という号を常用していた。九つの幸とは、
一に平和な世に生まれたこと
二に都で育ったこと
三に上下に交わったこと
四に長寿に恵まれたこと
五に俸禄を得ていること
六に貧乏をしなかったこと
七に名声を得たこと
八に子孫の多いこと
九に老いてなお壮健であること
これが、近世日本の最高の知識人といわれた人物が抱いていた人生観であった。
玄白85歳
「医事不如自然(医事は自然に如かず) 八十五翁九幸老人書」 という絶筆を残し、文化14年に
輝かしい85年の生涯を閉じました。
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