■桜田門外ノ変 安政七年(1860)三月三日、雪にけむる江戸城桜田門外に轟いた一発の銃声と激しい斬りあいが、幕末の日本に大きな転機をもたらした。安政の大獄、無勅許の開国等で独断専行する井伊大老を暗殺したこの事件を機に、水戸藩におこって幕政改革をめざした尊王攘夷思想は、倒幕運動へと変わっていく。襲撃現場の指揮者・関鉄之介を主人公に桜田事変の全貌を描ききった歴史小説の大作。
新潮文庫「桜田門外ノ変(上)」 吉村昭著 平成十年四月二十日 二刷 のカバーから引用
■関鉄之助 水戸の下級藩士の家に生まれた関鉄之介は、水戸学の薫陶を受け尊王攘夷思想にめざめた。時あたかも日米通商条約締結等をめぐって幕府に対立する水戸藩と尊王の志士に、幕府は苛烈な処分を加えた。鉄之介ら水戸・薩摩の脱藩士18人はあい謀って、桜田門外に井伊直弼をたおす。が、大老暗殺に呼応して薩摩藩が兵を進め朝廷を守護する計画は頓挫し、鉄之介は潜行逃亡の日々を重ねる・・・・・・。
同上「桜田門外ノ変 (下)」 のカバーから引用
■吉村 昭 1927(昭和2)年、東京日暮里生れ。学習院大学中退。’66年『星への旅』で太宰治賞を受賞。その後、ドキュメント作品に新境地を拓き、『戦艦武蔵』等で菊池寛賞を受賞。以来、多彩な長編小説を次々に発表。周到な取材と緻密な構成には定評がある。芸術院会員。主な作品に、『破獄』(読売文学賞)、『冷たい夏、熱い夏』(毎日芸術賞)、『天狗争乱』(大佛次郎賞)等がある。
同様「桜田門外ノ変 (上)」 カバーから引用
■桜田門外ノ変
この小説の主人公である水戸藩の関鉄之介が持病の痔を抱え、難儀する場面がときどきあります。 「痔」と書かれている箇所を中心に抜粋します。
(略)
住谷は、鉄之介たちに追いつこうとして、同行の大胡、吉田、根本をせかせて朝食をすませ、道を急いで、夕刻、鯖江について投宿した。翌日も朝早く宿を出発し、府中、今宿をへて敦賀方面へ足をはやめていったが、鉄之介たちの姿を見出すことはできなかった。
今宿に宿をとった鉄之介たちは、そのまま八日までその地にとどまり、それに気づかなかった住谷たちは追い越していったのである。今宿に六日間も逗留したのは、鉄之介の持病である痔が悪化し、脱肛して歩くことができなくなったからであった。
鉄之介は、宿の者に医者の往診をたのんで治療をしてもらい。三日目には出血もとまった。しかし、長い旅をひかえているので大事をとって逗留をつづけ、九日朝にようやく宿を出立することができた。
(略)
赤川は、江戸から三百里(一二〇〇キロ弱)もある萩に鉄之介らが来たことに、重大な使命をもって派遣されたと察したらしく、その日のうちに鉄之介たちを明倫館の学寮に移した。
鉄之介は、痔がまたも悪化しているのに気づき、憂鬱になった。それを知った赤川は、藩医の重見宗庵にこうて往診させ、宗庵は治療し薬もあたえてくれた。
(略)
鉄之介と矢野は、長州藩での打合わせ結果を鳥取藩に報告しておく必要があると考え、帰途、鳥取に立ち寄ることにした。作兵衛に治療の謝礼を持たせて藩医の重見宗庵のもとにとどけさせ、鉄之介たちは赤川と別れの酒を酌みかわした。
鉄之介の痔はまだ癒えず出血もとまらなかったので、一月七日、鉄之介だけが駕籠に乗り、萩をはなれて南への道をたどった。
(略)
鉄之介は、矢野と姫路に入った。
美しく風格のある城に、かれは眼をみはった。家並はととのっていて、町の人の言葉も優雅だった。物売りが家々の間を往き交い、名産の革細工を商う店が眼についた。
その夜は、飾西で宿をとった。痔の痛みは消え、出血もなくなっていた。
翌朝、宿を出て鳥取への道をたどった。寒気がきびしさを増し、道も悪く苦しい旅であった。三日月をへて平福の天田屋という宿屋に泊った。寒さのため再び痔が出て出血し、駕籠をやとって雪の深い山道を大原をへて坂根にたどりついた。
(略)
この温泉地での滞在は、大きな憩いになった。鳥取藩主慶徳がしばしば湯治にくる霊泉といわれる温泉は、かれの持病である痔に好ましい影響をあたえた。海も近いので新鮮な魚が口にでき、宿の者も人情こまやかで快適な日をすごすことができた。
(略)
鉄之介は、半月ほど前から体調がすぐれぬことを口にした。
痔をわずらうようになってからかなりたつが、それは便秘と下痢が交互に訪れるからで、消化器の変調がとみに激しくなっている。咽喉の渇きが日常的になっていて、夜、渇きで目をさますことも多い。
「それに、こんなものが出来て・・・・・・」
かれは、胸をはだけてみせた。赤黒くはれた吹出物がひろがっている。
(略)
鉄之介は緊張したが、旅人の通行おかまいなしで、幸手宿の旅宿鎌屋へついた。
二日後、かれは木村屋という宿屋に移り、牛村の医者の診断をうけた。
医者は、毎朝、治療をすれば二十日もたてば治ると言い、鉄之介は翌日から治療をうけに通った。
幸手宿は民家千三百余と言われ、妓楼もあって賑わいをきわめていた。雪が降る日もあったが、鶯の鳴く声もきこえ、春が近いのを感じた。
診療をうけて三日目、症状が急に悪化した。眼がかすみ吹出物の腫れが増し、激しい下痢で脱肛して出血がとまらない。その上、歯ぐきがはれて熱い物を口に入れることができなくなった。
牛村など行くことが無理で、大藤の依頼をうけた医者が馬で通ってきて投薬し、膏薬を貼ってくれた。
かれは、宿屋の一室で寝たまますごした。
与市は袋田村に帰り、大藤が残って薬を煎じたり膏薬を貼りかえたりして看病してくれた。
治療の効果が現われたのは、二月中旬であった。肛門の出血がやみ吹出物の腫れもひいて、かれは再び牛村に通うようになった。
(略)
二月十九日に元号が文久にあらためられた。
病状は、痔の症状がおこる程度で、鉄之介は訪れてくる石井重衛門や大藤勇之介などと酒を飲み、滅入った気分を晴らしていた。
(略)
同上「桜田門外ノ変 (上)、(下)」 から引用
原文表記と異なると箇所があります。
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