「白き瓶」 小説 長塚 節」
三十七年のみじかい生涯を、人間の世の中に清痩鶴のごとく住んだと悼まれ、妻も子ももたぬまま逝った長塚節。子規にもっともその才を愛されたこの歌よみは、同時に名作「土」を生んだおおきな作家でもあった。旅と作歌にこわれやすい身体を捧げた稀有の人、その生のかがやきを清冽な文章で辿る会心の鎮魂賦。
文春文庫「白き瓶《しろきかめ》 小説 長塚 節 」 藤沢周平著 2005年11月5日 第15刷発行 カバーから引用
[著者]藤沢周平(ふじさわしゅうへい)
昭和2(1927)年、鶴岡市に生れる。山形師範学校卒。48年「暗殺の年輪」で第69回直木賞を受賞。主要な作品として「蝉しぐれ」「三屋清左衛門残日録」「一茶」「隠し剣孤影抄」「隠し剣秋風抄」「藤沢周平短篇傑作選」(全四冊)「霧の果て」「海鳴り」「白き瓶 小説 長塚節」(吉川英治文学賞)など多数。平成元年、菊池寛賞受賞、平成6年に朝日賞、同年東京都文化賞受賞、平成7年、紫綬褒章受章。「藤沢周平全集」(全25巻 文藝春秋刊)がある。平成9年1月逝去。歿後、「漆の実のみのる国」「早春 その他」「静かな木」「藤沢周平句集」が刊行された。
同上 文春文庫「白き瓶」カバーから引用
■白き瓶
「痔」と書かれている箇所を中心に抜粋します。
(略)
六月六日には、朝日新聞の紙上に「土」の予告が出、十三日から連載がはじまった。予告は節の手紙をもとにして森田がまとめたもので、力にあふれた文章になった。こうしてはじめた新聞連載は順調にすべり出したかに思われたのだが、連載がはじまった直後に、節は以前からわずらっていた痔疾が悪化し、にわかに妹としの嫁ぎ先である真壁郡河間村の奥田医院に入院することになったのである。患部は化膿していて、節は義弟の奥田稟之助の執刀ですぐに切開手術を受け、そのまま入院横臥する身となった。
新聞の小説の方は、その時には五十回あたりまで森田の手に渡してあって、いますぐに困るということではなかったが、この思いがけない入院は、精神的にも節を苦しめた。入院が長びいて、原稿が間に合わなくなったらどうしようかという不安が先立つのである。
奥田医院がある河間村は、下館からおよそ北に二キロ、栃木との県境に近い農村である。田植が終った四方の田から、夜は絶え間なく蛙の声が聞こえた。節は、その声を聞きながら、手術後の痛みと新聞小説の心配で、幾夜か眠りにくい夜をすごした。はじめての新聞連載にそなえて、万事手順よく執筆をすすめて来たつもりだったのに、突然の入院は、その努力のすべてを御破算にしてしまったようにも思われたのである。
一方、担当編集者の森田草平も、節の小説「土」について、漠然とした不安を抱いていた。節は連載開始早早に痔疾で入院したことにはおどかせられたが、直接の不安はそのことではなかった。受け取った原稿は、まだ一カ月あまりは掲載出来るだけの分量があり、病気はたかが痔、そのうちによくなるだろうと思っていた。
(略)
しかし、編集者森田草平のそんな気持を知るよしもなく、節は奥田病院のベッドの上で、書きつぐべき小説のことを思い悩んでいた。手術の結果は意外に良好で、七月に入ると、二十日前には退院出来そうだという見込みも出て来たのだが、節は何となく今度の病気で小説執筆の腰を折られたような気がし、退院して小説を書きつぐということを、ひどく億劫なことに思いはじめていたのである。
(略)
赤彦あてのこの手紙は、七月十一日附けで、つぎに岡麓に手紙を出した二十日には、節はもう自宅にもどっている。岡あての手紙にも、節は「人間といふもの情なきものにて、少しの損所ありても元気乏しく、強ひて筆をとり候てもうまく参らねば苦痛のみ多く候」と書いた。
病気のために執筆の勢いを殺がれた上に、手術をした場所が場所だけに、退院したと言ってもどうしても身体をかばいながら書くことになる。しかも新聞連載という小説の性質上、気乗りしないから、身体がきついからと書くことを怠けるわけにもいかない。そういうわけで、その夏の「土」の執筆は節をかなり苦しめ、岡麓あての手紙に書いたように、「元気乏しく・・・・・・、苦痛のみ多」い仕事となったのである。
(略)
同上 文春文庫「白き瓶」から引用
一部原文表記と異なります。
|