痔の散歩道 痔という文化

「ソドム百二十日」

『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』(ソドムひゃくにじゅうにちあるいはいんとうがっこう、フランス語: Les Cent Vingt Journees de Sodome ou l’Ecole du libertinage)は1785年にマルキ・ド・サドがバスティーユ牢獄で著した未完の小説である。サドの最初の本格的な作品だった。

悪事と放蕩によって莫大な財産を有する4人の男が、フランス中から拉致してきた美少女・美少年達と深い森の城館で120日に及ぶ性的・拷問的饗宴を繰り広げる物語が、性倒錯、暴力、善悪、反道徳、無神論といったテーマと共に描かれている。小説として完成しているのは序章と第一部のみであり、第二部から第四部は草案の域にとどまっているが、これは時間的・状況的制約のみならず、作者が「想像力を超えたものを表現する」ことができなかった可能性も指摘されている。
(ウィキペディアより引用)


「マルキ・ド・サド」

マルキ・ド・サド(Marquis de Sade、1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族、小説家。マルキはフランス語で侯爵の意であり、正式な名は、ドナスィヤン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド(Donatien Alphonse Francois de Sade)。

サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリの刑務所と精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1ヶ月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄に1年、そしてシャラントン精神病院に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在その書籍は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。

(ウィキペディアより引用)


召使女に「
痔核」があったという個所を下記に引用します。

■「ソドムの百二十日」

序文

(略)
 
四人の召使女
 
 残るのは四人の召使女を選ぶだけになりましたが、これこそ最も風変わりなものでした。

(略)

 四番目の女は六九歳になり、ファンションという名前でした。悪事を(かさ)ねては行方を(くら)ましていたために、人形裁判(註6)で六回も縛り首になったことがあり、彼女が犯さなかった犯罪はこの世に一つもないほどでした。獅子鼻で、背が低く、肥っていて、斜視で、額がぺしゃんこで、臭い口には抜け落ちそうになった歯が二本だけ付いていました。お尻一面に丹毒が広がり、生れ付きお尻の穴には大きな
痔核がぶらさがっていて、締まりのない穴はいつも小さな音や大きな音を立てていましたが、自分でも気が付かないようでした。玉門はおぞましい下疳に荒らされ、片方の腿にはひどい火傷の痕がありました。そして、胃が非常に弱いのに年中泥酔していたので、そこいら中に反吐(へど)を撒き散らしていました。
 この四人の召使女は、やがて大勢が逗留することになるデュルセの館の様々な世話の他に、あらゆる宴会に加わって、主人公達が要求する淫楽を盛り上げるために一切の配慮と奉仕をすることになっていました。

(略)

「淫蕩学校の登場人物」

(略)

 召使女のファンションは六九歳になり、あらゆる罪悪を累ね、そのために六回も人形裁判にかけられて縛り首になっています。背が低く肥っていて、斜視で獅子鼻で額がぺしゃんこで、歯は二本しかなく、お尻一面に丹毒が広がり、穴から
痔核がぶら下がり、玉門は下疳で荒らされ、片方の腿はひどい火傷で、片方の乳房は癌に冒されています。いつも泥酔しては反吐を吐き、到るところでおならをし、うんこを垂れ、自分でも気が付かないのです。

(略)

(註6) 犯人の代わりに犯人に似た人形を使って欠席裁判すること。


一部原文表記と異なります。


「ソドムの百二十日」 
著者 マルキ・ド・サド  訳者 佐藤 晴夫  発行 青土社  一九九〇年六月十九日初版


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