「摘録 断腸亭日乗」
永井荷風(1879−1959)は38歳から79歳の死の直前まで42年間にわたって日記を書きつづけた。断腸亭とは荷風の別号、日乗とは日記のこと。岩波版全集で約3000ページにのぼるその全文からエッセンスを抄出し読みやすい形で提供する。この壮絶な個人主義者はいかに生き、いかに時代を見つづけたか。
岩波書店 「摘録 断腸亭日乗」 永井荷風著 磯田光一編 1999年4月5日 第22刷 の表紙から引用
[著者]永井荷風(ながいかふう) 1879−1959
東京・小石川の生まれ。本名壮吉。別号断腸亭主人。若いころより芝居や寄席、遊里に遊び、文学に親しむ。二十代の西欧体験をもとに「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表。一時、慶應の文科教授、「三田文学」を主宰。ついで「日和下駄」「腕くらべ」「墨東綺譚」。戦争中は世相を黙殺して江戸戯作の世界に遊び、戦後は巷の老独身者として浅草を愛した。日記に『断腸亭日乗」がある。
筑摩書房「ちくま日本文学019 永井荷風」 二〇〇八年七月十日 第一刷発行 の表紙から引用
■「断腸亭日乗」
「痔」という文字が出てくる個所を下記に引用します。
大正九(一九二〇)年
大正九年歳次庚申
荷風年四十有二
(略)
五月廿三日。この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。
五月廿四日。転宅のため立働きし故か、痔いたみて堪えがたし。谷泉病院遠からざれば赴きて治療を乞ふ。帰来りて臥す。枕上児島献吉郎著『支那散文考』を読む。
五月廿五日。慈君来駕。
五月廿六日。毎朝谷氏の病院に往く。平生百病断えざるの身、更にまたこの病を得たり。
五月廿七日。日暮驟雨雷鳴。
五月廿八日。午後井川滋君来り訪はる。その家余が新居と相去ること遠からざるを以てなり。『三田文学』創刊当時の事を語合ひて十年一夢の歎をなす。夜雨ふり出し鄰家の竹林風声颯颯たり。枕上児嶋氏の『散文考』をよむ。
五月廿九日。時々雨あり。寒冷暮秋の如し。
五月三十日。竹田屋の主人来り蔵書整理の手つだひをなす。この日、竹田屋歌麻呂春本金参拾円広重の行書東海道金百参拾円を示す。
五月三十※一。竹友藻風来り訪はる。日暮また雨。
六月一日。晴。新居書斎の塵を払ひ書筐几案を排置す。
六月二日。苗売門外を過ぐ。夕顔糸瓜紅蜀葵の苗を購ふ。偏奇館西南に向かひたる崖上に立ちたれば、秋になりて夕陽甚しかるべきを慮り、夕顔棚を架せむと思ふなり。
六月三日。木曜会。痔疾痊えざれば往かず。
六月四日。病大によし。夜有楽座に往く。有楽座過日帝国劇場に合併し久米秀治氏事務を執れり。
(略)
一部原文表記と異なります。
※三十は、原文と異なり、「川」?に「一」を重ねたもの。
岩波書店 「摘録 断腸亭日乗」 永井荷風著 磯田光一編 1999年4月5日 第22刷 から引用
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