痔の散歩道 痔という文化

「慊堂日暦」第1巻の解説から引用
 

「慊堂日暦《こうどうにちれき》」は、徳川時代の文化文政期の生んだ漢学者である松崎慊堂《まつざきこうどう》の日記である。然しこの日暦は、普通の日記とは体裁を異にしている。読書の抄録や批評、講説の覚え書き、社会の事件や見聞の記録、交友の記事、日常の備忘のメモ、家庭の出来事等を丹念に書きとどめ、これらを事項別に項目を設けて記述している。そしてまた日々の行動や、身辺の出来事を書きとめた日記をその間に配して、全体を綴り合わすという形式をとっている。本書の凡例で述べたように、日暦・日歴・日録などの名称を用いている所以である。
 この日暦は、特に人に示すためとか、後世に伝えるためとかの意図はなかったようである。ただ、読過し看過するに忍びない心にせまられて、徹宵して書き綴ったという性質のものが多い。従って何の気取りもなく、これを読むと慊堂の人柄にじかに触れる思いがする。


慊堂の出生地は、肥後の熊本である。益城《ましき》郡木倉《きのくら》村がそこであって後年に江戸目黒の羽沢村に山荘を構えて石経山房と称したが、木倉山房と称しているのは、故郷を思う心からであろう。生家は農業を営んでいたらしい。然し父の名は恵芳と言い、この人は出家であったのであろう。そのような関係からであろうか、十一歳の頃に真宗寺の小僧にされて、名を教応と呼んだという。十三歳の頃にはここを出奔して、しばらく行方不明となっていたが、実は江戸に上っていた。そして浅草の称念寺に身を寄せていたが、ここの寺僧の世話で、江戸幕府の学問所である昌平黌に入学することになり、やがて林述斎《はやしじゅつさい》の塾生となった。述斎は幕府の文教の権を掌握していた人で、佐藤一斎《さとういつさい》もその塾生であり、二人は学友として学問にはげんだようである。
次いで享和二年、慊堂が三十二歳の時に、掛川藩(静岡県)の招きによってその藩校の教授になった。その間に、藩政についての諮問にも応じて、大いに功績があったという。肥後の細川藩では、慊堂が肥後の産であることを知って、招聘しようとしたこともあったが、慊堂は掛川藩の知遇に感じてこれを固辞している。やがて文化十二年、慊堂が四十五歳の時には掛川藩を致仕して、江戸目黒の羽沢村に山荘を建ててここに隠居した。家督は児子に譲って、その住いは江戸桜田にあった。慊堂は羽沢の山荘に塾舎を設けて塾生を教授するとともに、桜田の児子の宿舎でも講義をしている。かくして羽沢の山荘と桜田の児舎とを、月に数回往復するという生活が続く。その間に、数所の大名邸に出向いて月々の講義もしている。「慊堂日暦」は。このような慊堂の生活の記録である。
(以下、略)

平凡社 東洋文庫169 慊堂日暦1〔全6巻〕山田琢訳注 1979年12月15日 初版第4刷発行 から


この松崎慊堂は長年痔疾に苦しんだ。「慊堂日暦」に痔痛や治療など関し、多くの記述がある。以下、痔に関する記述のある個所を中心にその一部を引用します。


「慊堂日暦」から

文政十年

(略)

五月

(略)

二十九日
(略)

○柿の葉は
を治す。煎じて患所を蒸す。経験す。」麝香(二分)、柿実の核の黒皮を去る(末四分)、石膏(四匁)。痛所に点し、管を以て吹き入る(安西家の方)。

(略)

文政十二年

(略)

五月 

(略)

二十六日 朝爽《ちようそう》、西北風あり。
痔疼甚だしく、腹瀉《ふくしや》やまず。頤庵にゆくに、左金丸《さこんがん》を与う。その樹歯を治するを観る。予の疼みはますます甚だしく、寓に帰って井斎に請う。井斎は野菊蜀葵を与う。煮て痛所を蒸すこと終日三次、ほぼ安らぐ。

(略)

二十七日 雨。北風甚だ冷かなり。
痔疾を以ての故に、蒸熨すること終日、少しく癒ゆ。(略)

(略) 

二十九日 雨。
痔痛甚だし。槐花を煎じて熨蒸し、ほぼ安らぐも、発しまた歇《や》みて定まらず。(略)

(略)

六月
朔 新晴。松尾街にて浴す。
痛みおこり。まさに朝《ちよう》すべくして遂にやむ。終日困臥す。(略)

(略)

九日(略)
○ 乾葛湯《かんかつとう》(
酒痔を治す)
白乾葛、■穀(きこく,■=口偏に只)、半夏、茯苓(ぶくりよう)生■〔草かんむりに下〕、杏仁(各半両)、黄(おうごん,■=草かんむりに今)、甘草(各一分)、黒豆百粒、白梅一箇、水にて煎服す。

(略)

文政十三年

(略)

十二月

(略)

二十三日 (略)晩、服・堀の二家を訪い、また大槻兄弟を訪う。酔うこと甚だしく、
痔疾は興中にて発し、痛むこと甚だし。昏に荘に帰る。西北風大なり。夜、四鼓半に小伝馬町に火を失し、延焼すること頗る大いに、両劇場もまた焼け、日本橋に至って滅す。

二十四日 立春(今暁、子四刻)。
痔疾痛み、ために海帯菜汁を煎じて洗浴し、悶臥すること終日。(略)

二十五日 晴、寒。午、風やむ。
を養い、洗浴すること終日。(略)

(略)

二十七日 また雪ふる。
痔疾は小安。疝気また発し、終日臥床。(略)

(略)

晦 晴。
痔疾は未だ平らがず。然れども歳夜なるを以て、強いて起きて室中を掃除す。(略)

(略)

天保二年
正月

(略)


四日 晴、風。晩、陰って殊に寒し。百瀬翁来り、春老来り、小飲す。林寛次・一柳吉進は荘に帰る。
痔痛の発してまた歇《や》むことしばしなり、海布を煮て洗滌し痛みを忍ぶこと終日。(略)

(略)

三月 

(略)

二十七日(略)この日、また灸す。
痔痛甚だしきを以て、■菜《どくだみ,■=葺の脚右側に戈》を煎じて頻りに洗う。侍児は昨日より感冒にて葛根湯《かつこんとう》三貼を服す。(略)

(略)

五月

(略)

十一日 晴。轎行して小田原にいたり、一書を駅亭に託し、一柳弟甫に致す。午下、宮下温泉に達し、藤屋(勘右衛門)に投ず。六年前の九月の旧寓なり。勘右は安藤氏、ちぢめて藤屋と曰う。泉は淡甘にして微鹹なり。記に云う、頭痛上気・耳目口痛・打撲・中風・蛔虫・痞積《ひせき》・疝・黄疸・淋病・頑癬・湿瘡・
痔瘻を治すと。浴法は、湯槽上に坐して洗面し、肩背より渾身に灌注し、おわって槽に入り肩を没す。肩出《い》ずれば、すなわち気は上逆す。体を展《の》べて寛博にし、十指の間にいたるまで湯が入らんことを欲す。手巾を以て渾身を撫摩し、手を用て前後陰を摩洗すれば尤も好し。日々に浴することは三次より十次にいたる。意《い》に浴せんと欲せば、しばしばして、自《おのずか》ら妙なり、意に欲せざれば、必ずしも強いて浴せざるなり。(略)

(略)

二十一日 晴。暁行して月に乗ず。逆川を渉れば天始めて曙《あ》く。駕は梅沢(松屋)に休み、南湖(江戸屋)にて午食す。
痔痛甚だしく、轎行して戸塚に宿す。春斎来り迎う。

二十二日 暁行すれば、月また佳し。金川谷(佐倉屋)に休み、生麦站にて午食す。痔痛を以ての故に轎行し、大森に休み、鮫津にいたれば郡山秀左と遇う。秀左は為に小酌を設く。(略)

(略)

十月

(略)

十一日 晴、暖。礼記《らいき》を読む。哺、雨また至る。
痔痛甚だし。東城生は出游す。

十二日 未だ晴れず。千文(第七十八本)を臨す。佐倉の迎人来れども、
痔疾を以て辞す。(略)

(略)

十八日 午後雨止む。
痔痛ことに甚だし。諸生来って詩文の題を求む。(略)

(略)

二十一日 晴、温。真に小春なり。千文(第八十二本)を終る。恩賜五葉記を浄書す。
痔疼は裂くが如く、湯熨して頗る安らぐ。(略)
○立野隆貞。
を治する薬は極めて妙なり。木挽町に居る。」瘻瘡を治す。敗毒散に雁来紅を加え、一冬長服すれば根を絶つ。」磯野公通。老医、甲の人、少《わか》くして徳本氏を奉じ、中年にして善く病人の発する蒸気を察して、病の在るところを知る。(略)

二十三日 陰。千文(第八十三本)を終る。舟橋宗賢の書来り、五葉松のことを報ず。万笈は林園月令を贈り、序を求む。永吉来り、後林の薪木を伐る。酒を与う。静海は
洗痔薬八裹を贈る。黒木生来る。

(略)

二十六日 陰。午下、晴る。鳥居君より書あり。午後、梳髪して東隣の滝川の新荘に赴く。日はすでに哺《ほ》なり。林長公・大郷信斎・長沼梧窓(四郎左衛門、剣客)すでに在り。余は
痔疼と牙痛とを以て多飲すること能わず。一柳君柯庵は晩に臨み、信斎と痛飲す。醒人が酔人を観るは、信に掌を撫すべし。四鼓、荘に帰れば、牙痛にて眠るべからず。(略)

(略)

二十九日 (略)
を治す。蝸牛の肉と熊胆とを和し、痔上に貼す。黒田云う。(略)

(略)

十一月

(略)

二十九日(略)渡辺公平来り蕎麦餅を饋り、対食す。
痔疾に於て相妨ぐるを覚ゆ。夜雨。

(略)

十二月

(略)

十一日 (略)
を治す
荷《みようが,■=草かんむりに襄》を園に蒔き、祝《いの》って能く吾が
を治せば、一生以て蔬となさずと曰い、時々を出だして以て荷に向くれば、は再発せず。岡田処謙、親験を語る。(略)

(略)

二十七日 晴。日は既に檐を過ぎて起く。また留語し、午を過ぎて辞去す。児の舎に入り、轎を命ずれども得べからず。徐に出でて堀田子を訪い、都坂邸を観る。
は脱して坐すべからず。轎を呼び送らる。昏、荘に帰り瘤《こぶ》に灸すること七■(=火偏に主)。痛みはいえたれども、脱せしもの《おさ,■=僉の右に欠》まらず、呻吟すること半夜、湯もて洗い始めて■(=僉の右に欠)まる。林長公より手書あり、博多酒・牛肉を賜う。

(略)

天保三年
正月

(略)

十四日 晴。昨、公子は冠山侯〔松平冠山〕の大病を告ぐ。余は
痔瘡にて往きて候すべからず。静海に属して往きて候せしむ。懊悩すること終夕。(略)

(略)

晦 陰。久しく出て歩かず、故に気体不和、飲食は化し難し。侍児はその父と驪山廟に詣ず、余もまたともに往く。途中にて
肛華《おさ,■=僉の右に欠》まらず、辛艱の極、言の状すべきものなし。日没して荘に帰り、湯熨してほぼ快し。婢翁と対酌してこれを遣る。(略)

二月

(略)

三日 晴、寒。出でて木村軍左衛門を訪い、侯の一力を借り、書を膳所に致す。
痔疾を以て明日の講を辞す。(略)

(略)

七日 (略)この日、精斎は
痔薬を送る。凡そ一升、一次に三勺を用う、熱して布片を用て少し濡して痛処に熨すること日に五次。臥するに臨んで、酒を以て薬末一匕を服す。洗服すること七日を以て効を取る。(略)

(略)

九日 晴。まさに西条の講に赴くべくして、精斎の薬を用うるがために、辞して赴かず。(略)

(略)

三月

(略)

十一日 晴、温。朝粥し、
痔痛を蒸熨し、おわって再び三生を延いて語る。(略)

(略)

十四日 服叔養を訪う。世子は有司をして轎を具して送らしめ、小堀友信に向い、
痔疾を診せしむ。友信は云う、このは絞断すれば害なし。然れども痛みは忍ぶべからず、かくの如きこと三十年不治、また何ぞ害あらんと。因って膏薬を与え、外よりこれを襲い行歩に便す。衣服の摩擦はやや可なり。出でて望雲生を訪い、荘に帰る。(略)

(略)

二十日 (略) 夜に入って帰れば、迎人しばしば出でしもみな遇わず。四鼓、荘に帰れば
痔痛甚だし。九鼓、迎人の一半帰る。八鼓再往せる者帰る。

(略)

四月

(略)

二十八日 (略)この夜、
肛脱して収まらず。

二十九日 陰。
苦痛甚だし。道生は極力これを収めんとするも、収まらず。浴に就けば、ほぼ安らぐ。浴を出ずれば故《もと》の如し。動揺すべからず。塩谷生より書あり、疾を訪い、且つ烏賊魚《いか》(五)を餽《おく》る。甚だ鮮なり。(略)

五月
朔 天陰。隠瘡の酸疼は昨より甚だし。未初、静海来る。余はまさに治を廃し、温熨して旧套を守らんとす。而るに静海は云う、治はすでに半に及ぶ、ただこれを忍べば、全癒すること遠からじと。強いて再び蛭《ひる》二十九頭を点じて■〔口偏に匝〕《す》わしむ。おわって少休すれば、■〔口偏に匝〕口の血は淋漓《りんり》としてやまず。哺後、熨薬を以てこれを熨すること半時、また水を灌ぐ。血止まる。道生は静海を助けて脱せるを収む。苦しみ言うべからず。半ば線牡を収め、
痔痛は小滅す。膏薬を点じ、布半幅(長七尺)を以腰骨を囲ること一匝、後余を以て軟膏上を過ぎ前布に係け、前余を以て交骨上に相結ぶ。昏、静海去る。一睡すれば疼処の白液は婦人の帯下《たいげ》の如し。布もて拭い、また睡る。近日、この況あることなし。

二日 陰。終日やや安らかなり(二蒸薬、二貼薬)。服部子来り
を看る。

三日 陰。ますます安らぐ。なお起坐すること能わず、三熨三貼す。塩谷生来り、
を看る。

四日 陰。時に日を見る。未下、静海来り
を看る。蒸洗して牡痔綿を換う。ますます安らぐ。(略)

痔疾。「説文《せつもん》」痔は後病なり、◆《やまい,病垂のみ》に从《したが》い、寺声。「荘子《そうし》秦王は病あり、医を召す。癰《よう》を破り■(=病垂に坐)を潰す者は車一乗を得、を舐《な》むる者は車五乗を得。「韓子《かんし》」内に●痔《たんじ,●=病垂に單》害なく、外に刑罰法誅の禍なし。

(略)

六日 晴。蒲湯に浴す。道生に属して
を診しむ。の痒きこと忍ぶべからず。伊《かれ》は小巾を以て四旁を拭い、始めて快し。この日、生徒の講を聴くを例とせるも、を以て廃す。林生・橋生来る。

(略)

九日 (略)静海来り、
牡痔落つ。

十日 陰。望来る。成内来り、水亀肉を餽る。水亀肉は
を治す。然れども都人は食せず、割烹法を知る者なし。出石の人は珍味となす。故にその人をして解剖せしめ、その調法を受け来り、烹して以て供す。極めて美、鼈《すっぽん》肉と相似て頗る腥《なまぐさ》し。(略)

(略)坡

十二日 (略)晩、服生来る。夜、蒲黄を以て膏薬に和して
に貼す。

十三日 (略)飯後、人に扶けられて後林に入る。
痔疾を以て酒を禁ずること数日。(略)

(略)

十八日 雨。上已、村山生・陰山生来る。上田雪坡は世子の命を以て来り疾を訪う。まさに午ならんとし、■(=木偏に夜)斎より書ありて云う。今日は業を廃すと。且つ製海参を餽る。道順来り、相対して学を語る。静海来り
痔疾を診して云う、老血すでに竭《つ》く、蛭を上すを用いずと。ただ、綿を以て蜜陀《みつだ》を浸し、これを擁するに辺膏を以てす。春水来り、浴湯のことを語る。(略)

(略)

二十六日 (略)晩、忽然として痛所牽掣し、
の出でたるもの暫くして収まる。夜、また出でて故《もと》の如し。(略)

(略)

六月

(略)

三日 終雨。待人は書を成丈人に致し、梓栽を付す。服生来る。道生は余の
痔肛を収め、始めて《おさ,■=僉の右に欠》まる。

(略)

十日 晴。佐藤喜久治来るも、疾を以て辞して面せず。望雲生来る。浴を設く。晩雨。
痔疾やや悪し。(略)

十一日 陰、雨は時に来る。
候は昨の如し。自ら園林の枝を除く。蒙翳ほぼ去り、一快なり。

(略)

十七日 (略)
痔疾は幸に安らかなり。夜、燈をかかげて郷飲酒《きょういんしゅ》半篇を読む。 

(略)


天保六年


(略)

五月

四日 (略) 静海来り、
痔疾を診す。蛭《ひる》をつけて血を■〔口偏に匝〕《す》わしむ。凡そ五頭、血は五勺ばかりと云う。酒を設く。(略)

(略)


一部原本と異なる表記があります。《  》内はルビです。


(引用文献)
○平凡社 東洋文庫169 慊堂日暦1〔全6巻〕山田琢訳注
 1979年12月15日 初版第4刷発行

○平凡社 東洋文庫213 慊堂日暦2〔全6巻〕山田琢訳注
 昭和47年6月30日 初版第1刷発行

○平凡社 東洋文庫237 慊堂日暦3〔全6巻〕山田琢訳注 
昭和48年7月27日 初版第4発行

○平凡社 東洋文庫337 慊堂日暦4〔全6巻〕山田琢訳注 
昭和53年8月25日 初版第1刷発行
 
慊堂日暦5、6からの引用はなし



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