痔の散歩道 痔という文化

耳袋(根岸鎮衛)
耳嚢(みみぶくろ)
「耳嚢」は、「耳袋」と記されることが多い。正確には「耳嚢」で著者がそのように記載している。
「耳嚢」は、江戸時代の旗本根岸鎮衛が、天明から文化にかけて30余年間に書き継いだ随筆で、2000を超える奇談・雑談の聞書を集録したもの。
話者は姓名また姓だけを記す者が120名ほどあり、あと、ある人の話とするもの、某の話のまた聞きとするものなどがある。自身の裁判時の体験談や奉行として市中の風説を探る者の言とするもの僅かにあるが、大体全編聞書のスタイルをとっている。
それらの話者には、勤務につながる高級旗本・同僚・下僚がいる。また意外にも医師が多い。呪いとか治療法・治療薬に関するものも多い。
に関するものが散見される。
『「耳嚢」の文章は文学的表現というには粗い。当時の社会相を伝えるものとしては虚構がある。しかし、その虚構は著者の意図するものではなく、お話として受入れて飾らずに書きとどめたにすぎぬのであって、かえって高級旗本から下層の庶民までの生き方・考え方がすけて見えるのがおもしろい。』

根岸鎮衛
元文2年に生まれる
宝暦8年根岸家150俵を継ぎ、御勘定として勤務
以後順調に出世し、寛政10年(1798)南町奉行となり、文化12年(1815)ま で在任、禄高千石となり、79歳で没。
典型的な立身出世をした人で批判する人もいたが、性格もよく能吏であったらしい。

岩波文庫「耳嚢」長谷川強校注から、以下も同書からすべて引用


■1
()の神と人の信仰可笑(わらうべきこと)こと(巻之四)

今戸穢多町の後ろに、
の神(とて)石牌(碑)を尊崇して香花など備へ、祈るに随ひて利益平癒を得て、今は(いささか)の堂など建て参詣する者有り。予が許へ来る脇坂家の医師秋山玄端語りけるは、玄端壮年の頃療治せし霊岸島酒屋の手代にて、多年自疾を愁ひて玄端も品々療治せしが、誠に難治の症にて常に右病ひを愁ひ苦しみて、「我死しなば世の中の病の事は誓ひてすくふべし」と、我身の苦みたへず常々申けるが、死せし後秋山自雲居士といひし由。かゝる事もありぬと、玄端語りしまゝを記し置ぬ。

〔※〕
の神─幕末切絵図に、今戸の本性寺に「秋山自雲神儀」の記入あり。芸林叢書本三村注に、日蓮宗本性寺の秋山自雲功雄尊霊のことあり、新川の酒問屋岡田孫衛門手代善兵衛がにくるしむこと七年、延享元年(一七四四)九月二十一日没と。
霊岸島─隅田川・日本橋川・亀島川に囲まれた島。中央に新川が通りその岸に酒問屋が多かった。中央区新川。


■2 病[
]疾まじないの事(巻之四)

寛政八年予はじめて病疾の愁ひありて苦しみしに、勝屋何某蒙申けるは、「小児の戯れながら、胡瓜(きうり)月の数求めて、裏白(うらじろ)に書状を(したた)め姓名・書判(かきはん)を記し、宛所(あてどころ)河童(かつぱ)大明神といへる状を添へて川へ流せば、果たして快気を得る」と教へしが、「重き御役勤る身分、性名を右戯れ同様の事に記し流さむは、不成(ならざる)(まじない)事也」 と笑ひしが、三橋何某も其席に有りて、「我も其事承りぬ。(しかしながら)大同小異にて、胡瓜ひとつへ右病疾全快の宿願を記し、河童大明神と宛所して是も姓名はしるす事也」といゝ、何れも大笑をなしぬ。

〔※〕
勝屋何某─豊造(とよなり)か(鈴木氏)。宝暦五年(一七五五)御勘定、安永六年(一七七七)組頭。
月の数─一年の月の数。十二また閏年は十三.
裏白─紙を二つ折にし表にだけ書いて裏を白く残すこと。
書判─花押
三橋何某─成方(なりみち)か(鈴木氏)。寛政八年(一七九六)御勘定吟味役。


■3 痔疾のたで薬沙(妙)法の事(巻之五)

石見(イシミ)(カハ)といへる草に、百芷(びやくし)当分(とうぶん)に煎じ用ゆれば奇妙のよし。吉原町の妓女など常に用るよし。吉原丁などの療治をせる眼科長兵衛物語也。

〔※〕
たで薬─患部を湯で蒸し温めるのに使う薬。
石見川─タデ科の1年草。
白芷─よろいぐさ。
当分に煎じ─等分。両方を同量採って煎じる。


■4 の薬伝法せしものゝ事(巻之五)

酒井左衛門尉(さえもんのじよう)家来にて萱場(かやば)町に住居せる前田長庵といへる医師、予が
腹合(はらあ)ひを愁ひける時薬を貰ひける時(かたり)けるは、の療治をなせる中橋の老婆あり。日ゝに門前に市をなし、近隣・遠所より日々にを愁る者来りしが、(かの)老婆(わずら)ふ事ありて長庵が療治にて全快なしける故、長庵右老婆に向ひ、「御身(おんみ)子とても無く弟子も不見(みえず)の妙法は人を救ふの一法なれば我に伝授せん事は(なる)まじきや」と(せつ)に乞ひしかば、彼老婆がいふ、「成程(なるほど)我等子共(こども)もなく誠に生涯の内のたづきのみにて、与風(ふと)此薬法の四、五を習ひ覚へ聞及びて種ゝの痔疾を見ければ、外の薬は(しら)ざれ(ども)、数多く見候得(みそうらえ)ば自然と工風(くふう)(つき)て、(これ)(かれ)に用い彼に是を与へけるに、自然と利くと見へて繁昌(はんじよう)せる也。長庵が其(もとめ)深切(しんせつ)なるに任せ、是迄医師も追々(おいおい)うはのそらの求めあれどいなみたれ(ども)、此度病気本復(ほんぷく)の礼(かたがた)」とて伝授しけるが、内痔などを表へ引出し候は一草の葉を用ひ、外へ出候て直し候にも一草の葉を用ひ、(つけ)薬は(ねり)薬にて竜脳(りゆうのう)等を加へ香気(いたつ)て強き薬にて、其教へ主は委細の事も知らざれど、医家にて工夫すれば其道理至極面白き法のよし。同家中の男右伝法の訳を聞及び、多年を愁ひしとて(たのみ)けれど、本科の業ならねば他の邪摩(じやま)(ことわり)けれど、切なく望みし故無拠(よんどころなく)右法を(もつて)薬を与へしに、立所(たちどころ)(いえ)けると語りける故、(ここ)に記し(おき)ぬ。

〔※〕
酒井左衛門尉─出羽鶴岡十一万五千石。
萱場町─中央区。
腹合ひを愁ひ─腹工合が悪い。
うはのそら─真剣でない。
竜脳─竜脳樹の樹液からとった結晶。



原文表記と異なる箇所があります。


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