痔の散歩道 痔という文化

当世病気道楽(別役実)
・・・・・・さて、病気である。このところ、いろいろな趣味を持つ御人が多いようだが、病気を趣味にすることこそ究極の愉しみといえるだろう。病気を敵視し、憎み、戦うばかりでなく、冷静に観察し、いっそこれと親しむ。ヒトの進化はここまで来たのだ!! 水虫も腹痛も脱毛症もガンだって愉しめる!? 別役流病気を趣味にする法。 解説 三輪和雄

ちくま文庫「当世病気道楽」筑摩書房 別役 実 (べつやく・みのる)著 一九九三年十月二十一日第一刷発行のカバーから引用  一部原文表記と異なります。


■別役実(べつやく・みのる)
1937年中国・旧満州生まれ。早稲田大学中退。劇作家。「マッチ売りの少女」「赤い鳥の居る風景」で岸田戯曲賞受賞。「不思議の国のアリス」「街と飛行船」で紀伊国屋演劇賞受賞。「諸国を遍歴する二人の騎士の物語」で読売文学賞受賞。つねに演劇界に新風を吹き込む演劇活動とともに、童話やエッセイ、評論などの多彩な著作でも知られる。著書に『犯罪症候群』『別役実の人体カタログ』などがある。

同上「当世病気道楽」カバーから引用 一部原文表記と異なります。


 この諧謔に満ちた本を読んでいると、「うそー」「ほんとー」という言葉がまず浮かびます。しかし、鋭い警句が散りばめられ、その論理(「詭弁」?)に納得してしまいます。
 この本では、風邪、腹痛、花粉症、歯痛、水虫、梅毒、不眠症、しゃっくり、すり傷、寡黙症、馬鹿などの35の病気?が取り上げられています。は、「序」と「最後」に登場しています。
 以下、たくさん引用させていただきます。



■序 病気の時代


(略)

 しかしそれからまた二、三年たって、私は国電の五反田駅のホームで、その男に会った。夕方のラッシュアワーの、ごったがえす人ごみをわけて近付いてきたそいつが、背後から私の肩をつかんだのだ。私はびっくりして聞いてみた。「どこへ行くんだ?」「いや、家へ帰るところだよ」そう言えば男の家は、そこから私鉄に乗っていくつか行ったところだった。「もう、日比谷で時間をつぶしたりはしないのか?」私は、その時とは見違えるように活気に充ち、晴れやかになった男の顔を見ながら聞いてみた。「いやあ、もうあんなことはしていられなくなったんだ。実はね、あのころあんなことしていたのが悪かったかもしれないよ。
になってしまったんだ。「に?」「そうなんだ」
 それから男は、電車が停る度にどっと押し寄せる人の群れに、もまれたり突きとばされたりしながら、私があからさまに迷惑そうな顔をしてみせたにもかかわらず、目を輝かせ、口からツバを飛ばして、彼がその時かかりつつあった「
」の症状を、微に入り細をうがって話し続けた。そして、(あたか)も人生の勝利者のように、肩をそびやかして帰って行ったのである。会社が終わったら直ちに帰宅するのが、一家の主人にとっての当然の権利であるかのように。
 「
」である。「」が、彼の人生に活気をもたらし、「生きていること」に根拠を与えたのだ。もちろん、さほど思いがけないことではない。「」とか「水虫」とかいうものは決して人を殺さないから、かつて《法定伝染病》がその栄光をほしいままにした当時にあっては、それにかかっていることを敢えて口にするのも潔しとしないという種類のものだったが、すべての「病気」が堕落してしまった今日、逆にその点が評価されはじめているのである。
 何よりもその、治るでも治らないでもないという優柔不断ぶりが、「病気」というものを持続的に確かめ、それによって末長く鼓舞され続けようという現代の好みにあっている。「アッ」という間に駆け抜けて、致命的な損害をもたらす、というものではないから、かなりの素人でも、それに対する手練手管を養い、楽しむ術を見つけ出す時間的余裕があるというわけである。しかも、ほんのちょっとした努力で簡単にかかることが出来、患者も多いから、お互いの苦衷を慰め合う相手にもこと欠かない。「
」持ち同士が、それぞれの症状について話しはじめたら、「水をかけてもやむものではない」と、古来より中国ではいわれている。
 「四〇を過ぎたら、おもむきある人生を送るべく、人はすべて持病をひとつ持つべきである」という言葉があって、私もそれに賛成なのだが、初心者は「
」からはじめるのもいいかもしれない。「病気」に対する、我々人類の新たなる対処法を確かめるためにも、よい材料であると、私は考える。

(略)

■「


 実のところ、
をここで問題にすることについては、いささか気おくれがある。数ある「病気道楽」の中でも、「道楽」にはとかくの評判があって、その間のいきさつを知っているものは誰でも、「あれだけは放っといた方がいいよ」と、常に言い交し、関わりあいになるまいと心掛けているのである。もちろん、いきさつを更によく知っているものは、「放っとく」だけでは足りないとすら、考えているであろう。

(略)

 ところで、こうしたいきさつに通じていないものは、当然ながら「どうして
道楽は、『
』という音に対して、これほど過敏に、そして過激に反応をするのか」という問題を抱かれるであろう。「どうして身動きもならないほどギッシリ詰まった聴衆をかきわけて演壇に近づいたり、赤信号であるにもかかわらず対岸の主婦に近づこうとしたりするのか」と・・・・・・。もっともな疑問である。しかし、その「答え」は極めて単純で、且つわかりやすい。言ってみれば彼等は、ただ「」が話題になっている人々の間に割りこみ、そこで彼等自身の「の症状」について、話したいだけなのだ。「なら、聞いてやればいいじゃないか」と、素人はすぐ簡単にそう言う。しかし、問題がその程度のことで解決するなら、誰もこれほど「道楽」を持て余したりしない。「じゃ、聞いてみろよ」と、事情通はそう反応するであろう。そして、一度その話を聞いたら誰もが、「聞いてやる」ことが、決して解決につながらないということを、致命的に理解するに違いない。いや、正確に言えば、「聞いてやる」ことが出来るならいいのである。「聞いてやる」ことが出来るなら、それは解決になるかもしれないが、実情は、とても「聞いてやる」ことなんか出来ないのであり、だから解決にはならない、ということである。
 誰でもが知っているように、
というのは尻の病気である。従って当然ながらその話は、「汚く」なることになる。それも、思い切って「汚く」なるのである。その上、これが一番問題となることであるが、「道楽」はすべてその話が「汚い」ことに喜びを感じ、出来得れば、「もっと汚く」したいと常に心掛けているふしがあるのだ。 だから、「
道楽」はよくその話を、食事中に持ち出すことをする。たとえば、或る見合いの席で、当事者たる男が膳部を前にし、相手の女に「実は僕は持ちなんです」と打ち明け、その見ている前で御飯粒をひとつ飲みこみ、「どんぐりころころ」の歌を一曲歌った後、尻に手をやって血にまみれたそれを、つまみ出して見せたという事例がある。

(略)

 問題は、「
道楽」は何故話したがるのか、ということであろう。もちろん、他の「病気道楽」においても、話すことに「喜び」を見出す傾向がないといは言えない。しかし、ここが肝心な点であるが、他の「病気道楽」が話すのは、ほぼ同病者に限られているのである。素人に話すことは、病気の種類にもよるが、何となくはばかられるものがあるのであろう。ところが「道楽」だけは、言うまでもなく同病者同士でも話すが、極めてあけすけに素人にも話すのであり、その点で何のこだわりも抱いていないのである。
 言ってみれば「
道楽」は、その病気の特殊性にもかかわらず、実に天真爛漫なのだ。内密に、同病者同士でひそかに楽しもう、というところがない。「もしかしたら」と、或る
の専門医は言っている。「医学的には何の根拠もないのだが、というものは公表し、人々にその症状を知らしめることによって治る可能性を持っているのかもしれない」と。だとすれば彼等がそれについてしゃべりまくるのは、症状を言葉に変えて放出している、ということになる。恐らく、そうとでも考えなければ、この彼等の熱狂的な露出癖は、説明出来ないということであろう。
 もうひとつ、この「
道楽」のおしゃべりを説明するものとして、「持ちはしゃべることで伝染す」という言葉がある。言うまでもなく、この言葉本来の意味は、「持ちにしゃべられると、聞く方が持ちになったような気分にさせられる」ということであろうが、もしかしたら「道楽」は、譬喩としてでなく実効性のある方法としてこれを信じ、我々に対して敢て試みているのかもしれない。ありそうもないことではない。彼等の話を聞いていると、ほとんどそうとしか思えないような迫力を感ずることがある。もちろん、伝染したところでどうなるものでもないと我々は考えるが、彼等に言わせると「他人に伝染してやったとわかると、半分治ったような気分になる」というのである。

教訓
 
というものは、肛門部に出来る潰瘍のことであるが、「道楽」は時に「あなたのはどこです」というようなことを、聞いてくる場合がある。これに対して、「肛門に決まっているじゃないか」などと答えたら、あなたは全くの素人と思われてしまう。は確かに肛門にあるのであるが、練達者はその肛門を「円」と考え、あお向けに寝てその「円」のどこに潰瘍があるかを、時計の文字盤の位置でしめすのである。従って知りあいの「持ち」に「どこだい」と聞いて、彼が「三時だよ」と答えてきたら、その「持ち」はかなりのものと、見なしていい。更に「三時三二分だよ」と分まで細かく言ってきたら、それはもう超のつくベテランである。


一部原文表記と異なるところがあります。

同上「当世病気道楽」から引用


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