痔の散歩道 痔という文化

痔の手術(瀧井孝作)
■痔の手術(瀧井孝作)

 わたくしは、四月の十七日の夜、
の手術の患者で、右田外科に入院した。病室は、六帖のたたみの部屋で、たたみはおもて替してきれいに見えたが、病室はやはりわびしかつた。わたくしは、これまで病院にはひとの病気見舞に行つて、病室のわびしさを見た方だが、こんどは自分が見られる方だと思つた。
 明日手術といふわけで入院したが、わたくしは病人らしくはない、平常とかはりがなかつた。それは、
の方も、脱肛と、それも永年、二十年位かの痼疾で、寒い時や緊張した場合に、が起つて、血が出て、気色がわるかつたが、平常の時は何でもないし、すぐにどうといふこともない痼疾なので、そのままにすぎたが、しかし完全に治しておきたいと思つてゐたので、今は、暑くもさむくもないよい時候で、病院ぐらしも比較的によい時期と見て、入院することにきめたが・・・・・・。家内が附添にきたが、入院した晩は、わたくしは未だ病人ではないので、家内は帰宅して、ひとりで九時にヒマシ油をのんだり、枕元の本すこしばかり披いて読んだり、しづかな夜分で、この病院は市中だが、平屋棟の病室も町家の真中程で、町家の夜分のしづかさは、郊外に住馴れたわたくし共には、亦、異様の感じもした。初めての所ではねむれぬくせで、ねむりも浅かつたが、気持はかるく、何も考へなかつた。ヒマシ油が利いて、夜中に一回下痢して、朝、またすこし下痢した。

 手術の日は絶食、湯水もとめられたが、そんなに空腹の感じはなかつた。十二時前に手術をすると云はれ、わたくしは、自宅に電話かけて、家内を附添に呼んだ。家内はゆうべお産に呼ばれて夜明しをしたと云つた。浣腸したり、手洗にも二度行つたりして、時間を待つて、一時間程おくれて、一時少し前に迎へにきた。わたくしは浴衣に丹前の入院患者の姿で廊下歩いて、手術室の方に伴はれた。廊下には外来患者などが一杯で押分けて通る位に賑つた。手術室の入口の室では、目だけ出してマスクかけた小柄の院長やかんご婦たちが、しきりに手を清潔に石鹸やブラツシユ使ふ所も見えた。

 手術室は、コンクリートの洗流しの床、医療器械も、鉄の手術台も、さむけのするやうなけしき。頭の上には、幾つも照明灯。わたくしは、踏台に上り手術台に腰掛けさせられて、丹前も浴衣もはぎとられ、背ろから腰椎麻酔の注射を打たれ、うすいシヤツ一枚ですぐに手術台にねかされた。尻あがりに頭の方の低い、せまいリノリウム板の上にぢかに仰臥で、わたくしは両手を枕代りにして頭をすこし上げたら、「麻酔がかかると、頭をあげてはいけませんヨ」と、婦長が枕代りの手も除けたりした。若いかんご婦たちが手術台をかこむ恰好で何かしてゐた。

 わたくしは頭の方が低い仰向けで、足は持上げられ、両足は恰もこしかけた恰好に、手術台の左右に立つた鉄の棒の上の皿にのせられて、バンドでしばられたが、シヤツ一枚でさむさうだが、足腰はほかほか暖かくなつて、手で撫でてみると、不気味にしびれて、麻酔が利いてきた。わたくしは目かくしをされたが。かんご婦たちは肛門のまはり安全かみそりで剃るらしく、剃つたあとは消毒薬がぬられた。股も布れ被ぶせられ、肛門だけ出して、厚い布で包まれ、すぐに肛門がひらかれて、何かくぎぬきかペンチでぐいとはさんでひつぱり出されたかのやう、強烈な手ごたへが頭にひびいた。ぢよきぢよき切取られるやうな、また縫はれるやうな触感と、縫糸をきるはさみの音、強い照明のあかりの感じなどもわかつた。さはり、いぢられて、手早く処理されてゐるのが、よくわかつた。ガーゼやホータイあてられ、目かくしもとられて、足の方のバンドもとかれた。手術台からかんご婦たちが抱上げて、浴衣やしき布団のある担送車の方に移される時、わたくしは、「手術の時間はどれ位」とたづねたら、婦長はやさしい微笑で、「二十分ほどです、麻酔の方は夕方まできいてゐますヨ」とをしへた。附添の家内も入口の方から見てゐたらしい。仰臥のなり浴衣をきせられ、丹前を被ぶせられ、担送車で長い廊下幾曲りして、病室の方に戻つて、仰臥のまましき布団舁いて、わらぶとんの上に移されたが。手順はよかつた。二十分間といふ手術は、早い軽い方らしかつた。

 頭は低めに枕外して仰向にねて、足は伸ばしてゐたが。わたくしは布団の中でも、何かにこしかけたままの心持がした。手術台にねかされて両方の足持上げられしばられた、麻酔の直前の感覚が消えずに続いてゐるのだ。布団の中で撫でてみると、胸のあたりは平常だが、みぞおちから下の方はあたたかいがしびれて、皮膚に触感はあるけれど、中味は何かスポンジのかたまりのやうで、腰の骨格などもごつい手ざはりがした。下半身うごかずに、こしかけた足の姿勢の感覚だけがいつまでものこつて、わたくしは埃及彫刻で見た、ぢつとこしかけた古代の人の不気味な彫像なども思出されたが。

 夕方、スタンドの灯が明るすぎるので、ふとんのえりから枕にかけて布れをかぶせて、そのかげに凹んだやうに寝てゐた。次女の新子が母親に夕飯と朝飯と弁当二つ持つてきた。わたくしは絶食だが、食慾も出なかつた。体温は七度三分。麻酔は未ださめなかつた。宵の八時ごろ、足の先がいくらかさめ初めたのがわかつて、足の指すこしうごかさうと試みたが、どうにもうごかなかつた。患部のいたみは、何か突張つたやうな、こはばつたいたみと、すごい神経的なキインキイン刺すいたみ、この針のやうないたみは断続した。十時ごろ宿直医にさう云つて、いたみ止めのモルヒネの注射一回打つた。十一時十二時に、足の方と腹の方と麻酔はさめたが、腰の方は未だしびれがのこつた。麻酔がとれて、布団の中で何かに腰掛けてゐる心持からは、漸と解かれたが。足の方はまだ自分ではうごかず、夜中だるくつらく、ねむれなかつた。家内はゆうべ夜明ししたので、早く寝たが、また何度か起されて、病人のだるい足くび持上げて足の向き一寸かへてみたり、何かでやはりねむれなかつた。のどが渇いたが、湯水をのむと吐きけがくると云はれて、夜中に何度も、吸呑の水ふくんで、うがひだけした。

 わたくしは、入院も手術も初めてだが、相当なものだとわかつた。

 手術のあと初めての食事で、朝食は、ちやのみぢやわんにリンゴの汁一杯と番茶一杯。便通止めの水ぐすり二日分、服薬は只これだけ。体温は七度二度。朝の回診は、ガーゼのとりかへ。患部にはゴム管がはまつて、ゴム管は安全ピンで止めてあると云はれた。固形物はまだでも、飲物はよいらしいので、夏みかんのジユースがほしくて、家内は買ひに出かけた。家内は花屋のチユーリツプ、白い縞目の彩色硝子のコツプに挿して持つてきて飾つた。薔薇も牡丹も未だ花屋にはなかつたと云つた。夏みかんのジユースは、砂糖と塩の味でコップに一杯、午前中に飲んで、力の足しになると思つた。昼食も朝と同じ、リンゴの汁と番茶。夕食には、おも湯、スープ、リンゴの汁、体温は七度一分。尿は手術後出なかつたが、晩になつて、しゆびんの目盛百五十ほど、ほそぼそと漸く出た。この晩はむしあつく、雨風が南向の硝子窓に吹きかけたが、家内はくたぶれてよくねむつた。

 朝になつて、天気は晴。体温は六度八分にさがつた。朝の回診に、院長が来て「未だ腫れてをる腫れとるナ、ゴム管はもうとりませう」と云つて、すぐにぐいと抜いて容易にとれた。わたくしはいたみも心持和らぐ感じがした。ゴム管のとれたあとは、プウとガスの出るのもわかつた。

 若いかんご婦が化膿止めの静脈注射をしたが、その注射針抜いたあとは、すぐに薬と共に血が出て、「血の出やすい体質でせうか」と云つた。注射の仕損じに、この言葉は、世馴れぬ初心と見えたが、また正直に医局でもこの話をしたと見えて、化膿止めの注射は次の日もう一回されて、こんどは婦長が絆創膏も用意してきて、手際よく注射したが。

 手術から三日目の午後に、Yさんが見舞にきた。Yさんは、わたくし共の同町内、自宅にテニスコートの在るテニスマンで、三年ほど前にこの病院で
の手術して、それでわたくしにも入院をすすめて、院長にも紹介した、この発頭人だが。茶目ツ気のぐりぐりした目付で、部屋も見廻して、元気に話した。「僕も、この同じ室ですヨ、いや痛かつたなア・・・・・・。こんどは、よく思切つてやりましたネ、早く見舞に出るのは、こらへて唸つてござる所見るとわるいと思つて、実は容子を見合せてゐたわけですヨ。モヒの注射は何回打ちました、え、一回だけですか、辛抱づよいですネ、僕は四五回つづけましたヨ、いたくつて、いたくつて、かいまきのえりもぼろぼろに歯でかみやぶる始末。尿道も閉ぢてふさがつて、カテーテルで出しましたネ。おなかにガスがたまつて、おならが出ないのも苦労でネ、おなかの上に馬乗りで強力で圧し出すさわぎでネ」と笑ひ話もした。以前にも話はきいたが、Yさんは入院する前に、すごいが起つて、にぎりこぶし程のかたまりが突出して、友人のテニスの先生が力一杯押込んでもはいらない位で、病院にかつぎこまれた、重い脱肛といふ話で、手術の時間も大分かかつたといふ。退院してからも、完全に治るまでに半年位はかかつたが、今はの方は絶対に起らないと云つた。わたくしの方は、これにくらべると、脱肛も、にぎりこぶしの十分の一程で、かるい何でもない方かもしれないが・・・・・・。Yさんは入院中のたべものの話もした。「アイスクリームはまだ売出さないかしら、口の中にとろけるやはらかいものが宜い、玉子のプデイングが一番うまかつたが」とYさんはそれを宅で拵へて届けさせようと、帰つて行つた。

 家内は附添でも格別の用はなかつた。朝昼晩の食事を食堂にとりに行つて、たべたあと返しに行く位。食堂の方の旧館の病室には、隣人も同室で、子供などは食事が待ちきれずに鈴が鳴るとぞろぞろ食堂にとりに出てくる、病院内のけしきも話した。家内は退屈して、「うちにゐると山ほど用があつてきりきりまひばかりして、この病院では日が永いわネ」と、徐ろに本や雑誌をひろげてみたりした。わたくしは、本も幾冊か枕元に取寄せたが、そのわりには読めなかつた。本の中にも入れず何もできなかつた。病院にはその生活があるらしかつた。その生活に嵌めこまれて病気も治るのだが。元気が出ると家に戻りたくなつてきた。一日一回、朝の回診に、ガーゼのとりかへがあるだけで、また異変の起る病気でもないので、五日目には院長に向つて、「もう退院してもいいでせう」と自分で申出て、その夕方退院した。病院にゐる間についでに、家内も、内科の方で健康診断のレントゲン写真もとつた。家内も何でもなかつたが。

 家に帰つたら、何かが一杯詰つて押寄せてゐるやうな濃い空気があつた。隔絶された病院の中とはまるでちがふ、家庭の雰囲気も、暫時めづらしかつたが。

(昭和三十一年九月 暮らしの手帖)


中央公論社 「瀧井孝作全集 第八巻」 昭和五十四年四月二十五日発行 から引用

一部原文表記と異なります。


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