■本駒込 吉祥寺 茗荷稲荷神社 東京都文京区にある本駒込吉祥寺の境内に茗荷稲荷神社があります。山門をくぐってすぐ左手にこの小さな社があります。ミョウガ断ちして祈願すると痔のやまいに効ありとして参詣者があるとのことです。 堂の手前の立看板に次のように記されています。
都営地下鉄南北線「本駒込」下車 徒歩10分 ■蛸薬師 成就院 東京都目黒区目黒の目黒不動の近くに、「信じて願えば何でも治る」といわれる御撫石(おなで石)で有名な蛸薬師成就院があります。この「おなで石」は、大きさが4センチくらいの卵形の黒いつるつるした石で、これで御真言を唱えながら毎日1時間以上(お願い中は「たこ」を食べてはいけない。)患部を撫でるとイボ、たこ、魚の目、ひふ病、眼病、脱腸、、ぢ疾、神経痛、内臓の病、ほか諸病に効能があるとされています。 「おなで石」は、本堂にあります。1500円の奉納が必要です。お願いが成就したときは、お石はお返しします。 「おなで石」について、当山の蛸薬師如来縁起に次のように書かれています。 このおなで石秘法は、開山慈覚大師が唐に求法の時、五台山において、伝授請来され当山代々の住持の秘伝とするところです。 このご利益は、江戸時代から特に知られ、幕府の老中となって寛政の治をなした松平定信(白河楽翁公)はその著書、「花月草紙」の第五巻に「蛸薬師」の1項をもうけ、いぼのとれたことの不思議な話を、数百字にわたって驚異と感激をもって記しています。
秋葉山別当 蛸薬師 成就院は、858年(天安2年)に慈覚大師円仁が開山した寺院。徳川三代将軍家光が再興。再興の際に、徳川発祥の地にゆかりの遠州の秋葉大権現を勧請し、併祀されました。 東京都目黒区下目黒3−11−11 JR「目黒駅」から900メートル 目蒲線「不動前駅」から300メートル ■本性寺 墨田川のほとりにある日蓮宗の寺。 この秋山自雲は、江戸時代から痔疾の霊験あらかたな神として江戸時代からの流行神とし有名で、今でも参詣者が絶えません。 「本性寺の題目堂には、痔疾に苦しんだ末寂した岡田孫右衛門が『秋山自雲霊神』として その後、痔疾を この秋山自雲は、、「秋山自雲霊神」のほかに「秋山自雲功雄霊神」とも称されています。 この本性寺から発し、主に日蓮宗の寺院に全国的に分祀されています。 江戸町奉行の また、江戸時代の地誌である武江年表には、「○九月二十一日、山谷町本性寺自雲霊神忌日也(摂州川辺郡小浜の産善兵衛とい云う人、江戸に下り、新川の商家岡田某に奉公しけるが、正直なる故、其の家を継がしめて孫右衛門と改む。 そして、ちくま学芸文庫 新訂 東都歳時記」(江戸時代の「東都歳時記」が原本)には、次のように書かれています。 「浅草山谷町本性寺、秋山自雲霊神開帳(痔疾を憂ふるもの、当社へ祈願をなすに果たして応験ありと言ふ。正・五・九月の二十日・二十一日には千巻陀羅尼修行あり)。」 現在も、毎年1月21日の秋山自雲の月命日に、秋山自雲が題目堂から本堂に移され、御開帳されています。 その際に、お札をいただくことができ、痔疾の治癒も祈願することができます。 なお、さらに詳細に知りたい方は、「痔の神(秋山自雲)」を参照ください。
東京都台東区清川1−1−2 浅草駅から徒歩25分、又は浅草駅から南千住行きのバスで都立産業労働会館入口で下車 ■宗賢寺 「当初、毘沙門天を祀っていたが、元禄時代に旗本の推挙でお寺となった。 痔の呪い(まじない)は、痔に悩んだ人に封じ祈祷として現住職の祖父が大正時代からはじめた。毎年十五夜のとき(日はきまっていない)、9月はじめから10月に行っている。千葉県八千代市の長妙寺でも痔の呪いを行っているが、宗賢寺が伝えた。」(宗賢寺住職のお話)
■勘助地蔵又は奴地蔵 港区の愛宕にあります。 二つの高層ビルに囲まれた愛宕グリーンヒルズにある青松寺の墓地に勘助地蔵があります。この青松寺は、大田道灌が開基したといわれ、江戸時代には、品川の泉岳寺、板橋の総泉寺とともに曹洞宗江戸三か寺の一つにも数えられました。 勘助地蔵は、青松寺の裏手の日本庭園を抜け、さらに上に上がると墓地があり、墓地の入り口近くの正面にあります。そこは大都会の真中という場所ながら、緑に囲まれた静寂な空間です。 この勘助地蔵の由来は、下記の東京都教育委員会が記した立て札のとおりですが、そのほか痔にまつわる事柄があります。 この勘助は、痔の病をもっており、この地蔵を拝むと痔によいという信仰が生まれ、病の癒えた人は勘助の好きだった酒を竹筒に入れて奉納したとのことです。今も訪れる方がいるようです。 また、この勘助地蔵を見ると、頭の部分が削られています。お寺の墓守の方にお聞きした話によると、参拝する方が、祈願成就のため削り取っていくとのことでした。
勘助地蔵がある場所とは、全く離れた場所にこの立て札があります。 槍持勘助の墓 勘助(芦田義勝)は美作国(岡山県)津山藩松平家の足軽であった。主人越後守ノ宣富の槍は長く、大きく、重く、道中供先にあって、倒して打首にあったものがあった。そこで、義侠心のある槍持の勘助は、身をもって難儀をあとに伝えまいと槍の柄を約1メートルほど切り落としその場で切腹した。元禄15年(1702)9月であった。 そののち松平家では再び切られるのを恐れて槍の柄に鉄の筋金を入れたという。勘助の墓は人の形に作られ奴地蔵とも呼ばれた。 昭和50年12月 東京都港区教育委員会
岡山県津山市のホームページには、次のように書かれています。 「越前松平家伝来の大熊毛槍は有名ですが、それにまつわる槍持勘助の話あまり知られていません。この大熊毛槍は十六槍と呼ばれた大身で、大名行列の花形でした。しかし、それを片手で持って権現様(徳川家康)御総領家の津山藩としての威光を輝かせるには、尋常な腕力、体力では耐えられません。その酷な大役を長年勤めた勘助は、歳とともに後継者に心を痛め、殿様の名誉を傷つけないためにもだれにでも持てる槍にしておこうと、忠義の一心で三尺を切り落とし、自分はすぐさま責任をとって自害しました。赤穂義士討ち入りの前年のできごとです。 『柄と腹を切って末世に残す槍』と後々川柳にうたわれた槍持勘助ですが、津山の殿様はその話にたいへん心を打たれ、武家奉公人の最下級者でありながら、侍の格式をもって、勘助を青松寺に葬送したと伝えられています。」 勘助地蔵又は奴地蔵 東京都港区愛宕 |
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