まず「聖者の事典」(編者 エリザベス・ハラム)から引用します。(次のとおりです。)
【庭師】フィアクル ◆ 年代−六七〇年ごろ没。 ◆ 祝日−八月三十日。 ◆ 崇敬−主としてフランス、特に十七〜十八世紀にかけて隆盛期を迎えた。アイルランドでは二十世紀から信仰されはじめた。 ◆ 他の守護分野−紳士用品店、タクシー運転手。痔、性病にかかった人からも祈りを捧げられる ◆ 表象−鋤
「フィアクルは極力女性を避けて暮らしたアイルランドの隠修士で、さらなる孤独を求めて母国を離れフランスで過ごした。モーの司教、聖ファロが彼に隠修士生活を送るための土地をブルイユ近郊に提供し、フィアクルはこの場所に庭園を造りあげた。彼は鍬を使わず杖で与えられた土地を耕し、たったひとりで草木の繁る庭園にしてしまった。その園芸技術から、フィアクルは庭師を守護する聖人となったのである。
彼は多くの弟子を集め、宿泊所を建設し、ここで病人を奇跡的に治したこともあった。その奇跡的な癒しの力は、彼の死後も続いた。 なお、フランスの四輪の貸し馬車の名前とフィアクルの関係は偶然によるものだ。一六二〇年、貸し馬車が初めてパリの町に現れたときに「フィアクル」という名前で知られるようになったのは、馬車の置き場がホテル・サン・フィアクルの近くにあったからである。」
「聖者の事典」 1996年12月10日 第1刷発行 編者 エリザベス・ハラム 訳者 鏡リュウジ 宇佐和通 発行所 柏書房株式会社
また、Harvard
Magazine (current issue)
には、詳細にサンフィアクルの伝記が記載されております。以下は、拙訳です。意味不明、誤訳のところがあります。興味のある方は、下記に直接アクセスしてご確認ください。 http://www.harvardmagazine.com/1998/07/vita.html
「サンフィアクルは、特別の分野を持っていた。彼は、アイルランドの修道士で、その時代におけるアイルランドの他のキリスト教徒のように、蛮族の中で伝道を行うためヨーロッパ大陸へ出掛けた。彼は、パリから遠くないモーに近いフランク族のところに定住し、その地方の司教である聖ファロに言ったように、彼は、そこで沈黙と孤独を求めた。
しかし、サンフィアクルは、世捨て人ではなかった。彼は、伝道者がなすべきである修道院を建てることを望んだ。ある物語によると、聖ファロは、1日で掘ることのできる溝で囲まれた全ての土地を与えることをサンフィアクルに約束した。サンフィアクルは、象牙の杖を使い、1日で広い土地の周りに線を引いた。そうすると、不思議なことに溝が次々に掘られた。彼は、死ぬまでこの中に建てられた修道院から出ることはなかった。
彼の祈りは、病気を癒し、彼の死後も癒しの奇跡は、この修道院で起きた。巡礼者たちは、癒しと信仰を求めて修道院に群がった。奇跡の溝はまだ残されており、訪問者に謙虚な威光を示し、修道士は周囲の国々からの侵略から守られた。女性は、神罰を恐れ、修道院から締め出され、時には、もし女性が禁を犯せば、狂信的に苦しめられたと言われている。(しかし、この点は、中世の伝承ではしばしば物語がお互いに矛盾することがある。女性は、ありふれた又は奇怪な悩みを癒すためこの修道院に来たと記録されている。ある胃痛の女性は、青蛇を吐き、同様の痛みのあった女性は、赤い虫を吐き出した。別の女性は、死から蘇った。)
この聖人は、泌尿器学と肛門病学を専門としていた。痔は、「サンフィアクルのいちじく」(注)と呼ばれている。17世紀になっても、病気に苦しんだリシュリュー枢機卿は、巡礼の旅に出て、聖人の聖骨箱を開けることを請い、その骨を患部に当てた。その後、多分必要なとき苦しめられた部分に当てるため、骨のいくつかを得ることを望んだ。
少なくともある中世の奇跡物語には、プロヴァンスから来た紳士のことが記録されている。その紳士は、外科医が治すことのできない大きな腫れ物のある生殖器に苦しめられていた。2年苦しんだ後、サンフィアクルの修道院に巡礼に出掛け、そこで、蝋で患部のレプリカが作られ、聖人に誓いを立てた。すぐにその紳士は、治り、それが残された。その蝋は、キャンドルの替りとして祭壇の上で燃やされていたにちがいないだろう。
聖人は、寄生虫、瘻、腎臓結石、がん、皮膚病、そして後には、性病、特に梅毒を治すため求められた。40年前、大部のキリスト教肖像画集の中で、ルイ・ローは、サンフィアクルが人気のある聖人の中で例外的に、めったに信者から名前を用いられることがない聖人であることを悔しがった。しかし、彼が治すそれぞれの病気にはつながりがなく、この軽視は驚くべきことではない。
サンフィアクルは、フランス革命後まで人気が残っていた。それから、彼への信仰は消えて行った。しかし、彼は完全に死んではいない。まだ幾人かの巡礼者は治療を求めてモーへの道を行くが、ルルドがずっと以前から人気の場所に取って代わっている。
長い間、聖人の伝記と聖像の編さん者は、サンフィアクルがパリの辻馬車の御者の守護聖人である考えていた。御者たちは、彼らを守り、乗客を守る聖人として利用してきた。あろうことか、この聖枝でさえ辻馬車の御者たちに運ばれていたとされている。パリの乗合馬車は、17世紀にフィアクルと呼ばれはじめていた。乗合馬車は、泥だらけの道を通行するために作られた頑丈で、高い車輪の乗り物で、1640年頃に建てられたホテルサンフィアクルの名前にちなんでいる。 ルイ・ローと ローマ教皇ヨハネ23世によって編纂を命じられたthe
Bibliotheca Sanctorum
の両者ともに、パリ人のタクシー運転手は、彼らの聖人と主張していることがつくり話であるとして非難している。
しかし、サンフィアクルの表情にはかすかな栄光まだ残っている。彼は、庭師の守護聖人、特に、野菜を育てる者に残っている。彼が彼の修道院の回りで育てた野菜は、実に見事であると言われていた。当然のことであるが、彼は花屋と焼き物師によっても言われていた。彼の肖像画は、パリ市内、フランス北部、フランス西部、ベルギー、オランダの教会の多くに厳粛に飾られている。サンフィアクルは常に彼の脇に鋤を持ち、彼の出で立ちは、いつも粗末な衣服をまとい、農民の靴を履いていた。サンフィアクルは、開墾すれば自分の領地になる土地を探しているようにも見える。
サンフィアクルは、おそらく庭から雑草、枝、石を取り除く使用人から頼られる聖人である。そして、もしサンフィアクルが開墾や重労働を手伝わなければ、決して実現できないような労働に対する忍耐と粘り強さを少なくとも与えたであろう。フィアクルは、とにかく聖人の一人である。そして、サンフィアクルの恵みは、春の植樹、夏、収穫、季節の変わり目の匂い、花に溢れた土地の喜びを愛する人々によって歓迎された。」
(注) 「サンフィアクルのいちじく」とそのまま訳したが、どうでしょうか。原文は、「Figs
of Saint Fiacre」と書かれている。 また、フランス語では、「le fic de S.Fiacre」(catholic
-forum.com)のようである。そして、この「fic」は、仏和辞典では、「(牛・馬の体の各部に生じる)いぼ、こぶ」と書かれている。 なお、日本では、「痔のことを『フィアクルの病気』と呼ばれた」と表現している本が、いくつかある。
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