■白隠
白隠という現象 芳澤勝弘
白隠慧鶴《はくいんえかく》(一六八五〜一六七八)は江戸中期に出現した禅僧で、「五百年間出《ごひゃくねんかんしゅつ》」とたたえられ、「臨済宗中興《ちゅうこう》の祖」と呼ばれている。現在、日本の臨済宗の法源をさかのぼれば、みなこの白隠に帰着するからである。しかし、この人物は宗教の世界にとどめおくことのできないスケールの大きさをもった稀有の存在である。いわば、江戸中期に出現した、とてつもない一大現象である。その余波は時空を超え、現代にまで及び海外にまで影響を与えている。
(中略)
白隠禅画といえば、ややもすれば、その珍奇な造形に注目されることが多いのだが、そのフォルムを見るだけでは、そこに内包された意味は凍結されたままである。賛を解釈をすることによって、その禅画に秘められたメッセージが判然として来るからである。このようにして初めて、「形を超えたもの」が三百年の時間を超えて、現代のわれわれの中で生き生きと甦ってくるのである。
「別冊太陽 日本のこころ203 白隠 衆生本来仏なり」 平凡社 1013年1月14日 初版第1刷発行 から一部を引用
■お福御灸図
痔有るを以てたつた一と火
「お福《ふく》御灸図《きゅうず》」
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国立国会図書館ウェブサイト 近代デジタルライブラリー
「白隠墨蹟」から転載 |
痔は「持病」である。お福さんが根本の病を治そうとして、お灸をしている。
寺小屋の教科書に用いられた『実語教』の冒頭に「山高きが故に貴からず、樹有るを以て貴しとす。人肥えたるが故に貴からず。智有るを以て貴しとす」とあるが、そのうちの「智有るを以て貴しとす」をもじったもの。「たつた一と火」は、「タッタヒトヒ」ではなく、チャキチャキの江戸弁で「タツタシトシ」と読まれねばならない。こう読めば、江戸庶民は誰でもこの語呂合わせがわかったことであろう。
男の着物にある「金」印は何か。物質的欲望の追及を象徴とする「金々」である。お多福女郎は、そんな金々野郎の根本の病を治療しようとして、お灸をすえているのであろう。
《 》内は、ルビ
同上 別冊太陽「白隠」から引用
■お多福というキャラクター
お多福は布袋とならぶ、白隠禅画における二大キャラクター。お多福は醜女の代名詞であるが、古代から平安のころまでは、このような下膨れが美人とされたが、室町時代ころから美醜両方をもった存在に変わり、やがて醜女を称するようになった。お多福のことを白隠は「頬骨が出て鼻がペチャンコの美人」と表現する。白隠は世の男たちが執着する美女ではなく、この女性を美醜を超えた存在として描いているのである。お多福の着物には「寿」の字が書かれている。「寿」はイノチナガシと読む。永遠の生命である。お多福に寿、つまり「福寿」の象徴である。
《 》内は、ルビ
同上 別冊太陽「白隠」から引用
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