■地口絵手本
地口絵手本は、「(略)百人一首の下の句のみを地ぐり、それに絵を添えたものである。作者の梅亭樵父については未詳で、御教示を俟つ。亭号から推して、梅亭金鵞らと同じ戯作者系統とも見られるが、画も自筆なので、絵文に巧みな風流文士であろう。『図書総目録』にも、本書だけが著作として載っている。その点、江戸末期の作とも考えられるが、二編の口上中に「大江戸も今東京の花の都と成上がれば」とあるので、江戸を東京とする詔書が出た慶応四年七月十七以降に出たものと考えられる。版心に書名を持つ初版に刊記があれば明白になる。版元も江戸名代の老舗である。
よく知られている成語に語呂を合わせる言葉の洒落の地口(口合)は、ことば遊びとして広く喜ばれ、「地口行燈」、「地口絵手本」の書名で多く出されている。百人一首の下の句は、故事・諺・通言に匹敵する地口の絶好な題材で、書名は「地口絵手本」であるが、これまた内容から見て「道化百人一首」に属するものである。(略)」
太平文庫34「もじり百人一首三種」 武藤禎夫編 平成八年正月刊から引用
この「地口絵手本」に「痔」の記載があります。
百人一首の元の句は、菅家(菅原道真)の「このたびは幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」ですが、下の句をもじり、絵を添えてあります。
■「地口絵手本」の画像
「痔持ちの臀紙をもみもみ」と書かれています。
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国立国会図書館デジタルコレクション
「地口絵手本」から転載 |
■元の句について
宇多上皇、菅原道真ら「(略)一行は奈良へ向かい、吉野宮滝まで四日をかけ、時に幽邃な森林の中を行きます。途中、右大将道真は、上皇に手のこんだお食事をさし上げたり、自らの大和の山庄にお泊めしたりお世話につききりのようです。馬を歩ませては弓箭をとり、詩を詠じ、面目きまわりなき旅でした。
百人一首の歌もこの旅で詠まれています。山城から大和へ越す奈良山の峠で、一同が見はるかす紅葉の美しさに打たれているとき、道真は、従者たちが峠の神に幣をまいているのに目をとめました。細かく切った色とりどりの絹はいつものように風に散ったのですけれど、その美しさは、とても大自然のカラフルさにはかないません。
歌を求めるられると、道真はすぐ歌いました。(道真は即興の詩が速くて有名な人です)
─このたびは(今回のすばらしい旅この絶景に接しましては)
─幣もとりあへず手向山(峠の神におそなえするろくな幣もございません)
─紅葉の錦神のまにまに(そうです。このすばらしい紅葉の錦を手向けましょう。これこそ神様の御心にかなったもの)
(略)」
ちくま文庫「みもこがれつつ」筑摩書房 矢崎 藍 (やざき・あい)著 一九九四年十二月五日第一刷発行から引用
一部原文表記と異なります。
幣
ネットにある「Weblio 古語辞典」には、次のとおり記載されています。
ぬさ〔幣〕
神に祈るときの捧(ささ)げ物。
古くは麻・木綿(ゆう)などをそのまま用いたが、のちには織った布や紙などを用い、多く串(くし)につけた。また、旅には、紙または絹布を細かに切ったものを「幣袋(ぬさぶくろ)」に入れて携え、道中の「道祖神(だうそじん)」に奉った。
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