T箱根七湯について 「箱根温泉の歴史〜七湯から十七湯へ〜」学習テキスト 箱根町立郷土資料館 (郷土資料館の各展示コーナーに置いてある手作り風の冊子です。) から、次のとおり一部抜粋します。なお、一部、原文と異なるところがあります。 1 箱根 箱根は、長い間の火山活動によって、現在のような三重式火山となりました。同時にこの火山活動は、わたしたちに「温泉」という天与の資源も与えてくれました。そのため、各所で温泉が湧き出し、箱根は温泉地としての歴史を歩むことになります。 鎌倉時代になると、次第に「温泉場」が形成されるようなります。箱根で最も早く発見されたと伝えられるのが湯本温泉で、その後、芦之湯温泉や底倉温泉、木賀温泉などが次々発見されていきました。特に湯本温泉は、鎌倉時代以降、箱根超えのルートとなった湯坂路に位置していたこともあって、宿場としても整えられ、多くの旅人が利用するようになりました。江戸時代前期の貞享3年(1686)、小田原藩政が、稲葉氏から大久保氏に移る時に作成された引き継ぎのための記録には、箱根には、こうした温泉場が、この時すでに七つあったことが記されています。この七つの温泉場─湯本、塔之澤、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯は、総称して「箱根七湯」と呼ばれました。 2 献上湯と大名湯治 江戸時代となると、温泉場に湯治に行くだけでなく、温泉を取り寄せて病気療養にあてるという「献上湯」も行われるようになりました。この近辺では、徳川家康が慶長年間に熱海温泉から「献上湯」を取り寄せ、病気療養にあてたのが始まりだといわれています。 箱根七湯でも、三代将軍家光の時代、正保元年(1644)に木賀温泉から献上湯が行われたのを皮切りに、湯本温泉や塔ノ沢温泉、宮ノ下温泉などで献上湯が行われました。東海道を江戸に向かって運ばれた献上湯は、江戸や沿道の人々の話題を集め、箱根温泉の名前が広がっていく大きなきっかけとなったでしょう。 また、塔之澤温泉や宮ノ下温泉を中心にして大名湯治も行われるようになりました。大名湯治は、「留湯」(とめゆ)といって関係者以外の利用が禁じられる措置がとられるのが一般的で、しかも家来を連れてくることが多く、時には数百人になる時もありましたから、ひとたび大名湯治ともなれば、一つの温泉場が貸切状態となるのが通例でした。 このように、将軍への献上湯が行われたり、大名が湯治に訪れるようになると、箱根温泉の名は次第に知られるところとなり、評判を高めていくことになりました。 以下、この冊子は、湯治場、一夜湯治事件、温泉観光地への動き、近代化の波、国際観光地・箱根、別荘時代の到来、箱根十二湯の時代へ、山間村落の開発〜高原リゾートへ、外国人リゾート・箱根、箱根土産、生まれ変わる文化財、戦後の観光開発、箱根十七湯というテーマでテキストが構成されています。 U七湯の枝折 蔦屋本では、七湯は「ななゆ」だが、「しちとう」と言う場合が多い。 32の異本があるそうだが、蔦屋本が最も優れていると言われている。 この「七湯の枝折」は、文化八年(一八一一)に成立し、まさに一夜湯治公認の後、箱根が温泉観光地として発展していくという化政期の箱根七湯の情景を眼前に再現してくれる貴重な資料である。 「この資料には、箱根七湯の景観や周辺の名所・旧跡、名物・名産が詳細に描かれています。著者は、『病気療養のための温泉場が、近年遊興の場所になり、嘆かわしいことである。この書は、温泉の本来的な利用を促す手引きとするために作成した。』とその目的を記しています。」(企画展図録「七湯枝折」箱根町郷土資料館編集・発行より引用) 著者は、文窓と弄花の二人で、これを文窓が校正し、弄花が編纂した。文窓の序と弄花の自序がある。文窓と弄花については、東都(江戸)の人であるが、判明しない点が多い。 蔦屋本は、箱根町の郷土資料館が蔵している。全十巻である。一部が常設展示されており、実物を見ることができる。 この「七湯の枝折」の底倉の巻には、「痔」にお灸をすえる図がある。また、痔を湯気で蒸す痔蒸し、痔をうたす滝なども紹介されている。 (底倉温泉に関しては本ホームページ「痔を癒す温泉(関東編)」、「江戸川柳」もご参照ください。) 以下、蔦屋本(箱根町教育委員会「七湯の枝折」 釈者 沢田秀三郎 昭和五十年三月八日発行)から「痔」に関連するところを抜粋した。底倉は、巻ノ六に記載されている。
巻ノ六 東都 文総校正 弄花纂輯 ○底倉の部 宮の下より此所迄三四丁町つゝき也 ○ 気味至而鹹し熱湯なり (略) ○湯宿四軒 ○梅屋亦左ヱ門 ○蔦屋平左ヱ門 ○万屋伊兵衛 〇住吉屋源右ヱ門 ○効験 ○痔疾 ○淋病 ○疝気 ○中風 ○帯下 ○打身 ○痰 ○頭痛 ○痛風 ○消渇 ○寸白 ○血塊 (略) ○此湯痔を蒸すに究めて験ありゆへに家々湯壺のかたへに痔をむすべきまうけあり其さま大概腰掛やうの者をしつらひ是に丸き穴の上へ孔門(註6)をあてゝ蒸さするなり但し是にも心得あり先ツむさんと思ふ前に湯に入りてとくとあたゝまり其後此穴のふちへ濡手拭ヲ穴より一寸ほどよけて丸く輪の形とをなし其上へ己が孔門をひたとのすべし此のする事若手廻しあしき時ハ下より上る湯気にて却而孔門を焼く事あり速に座する時ハ湯気よきほどに当りて甚だ心地よし 又梅やといへる湯宿に戸棚風呂といふあり是も痔をむす風呂にて中に同し穴二ツあり一ツの穴に蓋れバ湯気つよくあたり蓋とれバよわし其外万やという家にも痔をうたする滝あり是を陰陽の滝と号けて一ツハ上より落る事常のごとく是を男滝といふ一ツハ下より吹上る事四五尺是を女滝といふ婦人などハ此れ女滝の吹上る穴の口へつくばひて孔門をうたするに利かたよくしるしも殊にすみやかなり
(図中の説明:痔に灸すゆる事捻り艾にて一度に五十五そうツヽすゆる也此艾に火をうつして小サキ竹の管にて一息ツヽ吹切るなり其あつきやうにみゆれとも艾早くたちて一息ツヽ吹切ルゆへ一息の間をこらゆれバ却てしのぎよし) ○右痔に灸する事ハ往者崎陽の名医何某此地に来りし時此痔風呂あるをみて湯宿の主に灸治の法を伝授し且山中をたつね艾葉をもとめ手づから製し是を与ふ夫より病者毎すえ試るに痔風呂滝湯にて治しかたきも必此灸にて癒る事速なり主あまりの辱にわさわさ崎陽に至て懇に彼の医を求れど其行衛をしらず是偏に仙神ならめといよいよ尊ふとみ累世子孫につたへ今家々に灸治する事とぞ ○此灸治する事を世上にてはひとへに罪あるものゝことく無躰に手足なと縛りちゝめてすゆるなと心得て殊の外おそるゝ人もあれど夢(註7)左にハあらじ只灸する時両足の邪魔となれバ和らかき紐にて図のごとく結び首へ引かけさする迄也いかほど年へ経たる痔にても大てい二廻りも灸治すれバ全快せずといふ事なし艾薬又崎陽の医の伝授を得て製すれバ功能他に越へて火気も又和らかなり此灸治する人は大てい湯宿のあるしなり ○艾葉又当所に生するを製す色黒く功能他に異なり此ほか五痔脱肛それそれの主治養生並に食物の禁忌あり病者よろしく湯宿に尋ねてしるべし但し灸治は一日置にすゆるなり此内油強き魚あくつよき野菜等ハことにいむべし (略) 註6 孔門は肛門。 註7 夢=努《ゆめ》。 一部原文表記と異なるところがあります。 参考文献 箱根町立郷土資料館「箱根温泉の歴史〜七湯から十七湯へ〜」学習テキスト 箱根町教育委員会「七湯の枝折」 釈者 沢田秀三郎 昭和五十年三月八日発行 企画展図録「七湯枝折」箱根町郷土資料館編集・発行 二〇〇四年九月二十五日発行 有隣堂「箱根七湯─歴史とその文化」岩崎宗純著 昭和五十四年七月二十日 第一刷発行 なお、図は、国会図書館デジタルコレクションから転載したものです。「痔に灸治する図」は、蔦屋本と国会図書館本とは、どちらも陰間に対し宿の主人と思しき人が竹筒で艾を吹き込む図ではありますが、大きく異なります。また、蔦屋本では、図中に詞書が入りますが、国会図書館本は、本文に記載があります。 きちんと比較はしていませんが、文の内容も少し違うようです。 (国会図書館デジタルコレクション「七湯栞」の画像を使用したのは、たまたま転載許可が必要でない画像でしたので、転載しました。) |
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