痔の散歩道 痔という文化

■大だわけ持牛蒡を焼いて付け

(樽一三一25)


■はさみけり・
の妙薬ハなすひつけ

(明二・仁6)


黒縮緬(くろちりめん)()くような
持ちの屁

「という句である。さて、これはどんな放屁であろうか。当時、布地を断ち切る際には、切り口を付けて、鋏を用いず手で一直線び裂く事が多く行われた。普通の布地などは少し甲高い音を発して、ぴぴーと一気に裂ける。黒縮緬の場合は、縦糸と横糸の関係から一気には裂け難く、鈍い音を発して中々切れないのであろう。
持ちの屁は、痛みが伴うために、少しずつガスを発して静かに静かに長々と放出する。一気に破裂的にはいかない。これはあくまでも、筆者の想像的解釈である。読者の方々の豊な空想にお任せしたい。(「江戸のおトイレ」渡辺信一郎著 新潮社)

(新一8)


■御
へ曾呂利牛蒡をやいてつけ
「『猿の尻はまっかっか牛房焼いておっつけろ』とうい俚謡に因んでの句か。」(川柳江戸の民間療法」小野眞孝著)

(樽三九3)


■後架から扨なんざんと
持出る

「やっと排泄を終えてトイレから出て来た
病みの男(女?)、痛みを堪えながら成し遂げた行為に安堵感を覚え、「さても、さても難産であった」と述べている情景である。女が遭遇する困難な出産に仮託している所が、面白い。「難産」の第二義として、「物事がたやすく成就しないこと」の意もあるが、排出する苦労を洒落ていて、秀逸な句となっている。「難産、色に懲りず」(苦しいめにあっても、性懲りもなく同じ行為を繰り返す)という俚言があるが、このイメージを背景として置いているとも考えられる。」(「江戸のおトイレ」渡辺信一郎著 新潮社)

(安元義6)


■晒六尺
の神とて書き上げ

「幟。褌も晒の六尺を用いる。」(小野眞考著「川柳江戸の民間療法」から)
の神秋山自雲に願を掛け、治ったお礼に幟を奉納する寺もある。の神には、幟も褌か。

(樽一〇四13)


を見てせざるはいさみ無和尚也
(又は
()を見てせざるはいさみ()和尚(おしょう)(なり)) (樽三四32)

「和尚が、男娼と肛交かまたは寺小姓とのそれの場面である。後庭華を提供するのを常とする者は、
痔疾に罹ることが多いと言われる。排泄器官である肛門を、無理に逆方向から開かせるために、肛門周辺や直腸を損傷するのである。練習を究め、潤滑剤を使用しても、女陰の膣の筋肉組織とは異なり、その伸縮性においては格段に劣るものである。狂歌集『六樹園家集』雑の部(天明七頃−一七八七)に、
 唐丸(からまる)にいざなはれて、陰間(かげま)をもとめにゆきて、床に入りけるに、此若衆俄に()いたみ堪へがたしとて、うめきければ、
 さしあたり何とせん()のはひり口釜破損(かまはそん)付き(つき)今日休み 宿屋飯盛(やどめしもり)
 つつがなく守りてたまへ
の神よあはれとしりの穴のあたりは 陰間述懐とあり、往々にしてこんな事もあったという証である。唐丸(からまる)は当時の出版業主の蔦屋重三郎であり、宿屋飯盛(六樹園)は国学者の石川雅望である。このインテリたちも、男色好きだったのである。二人は連れ立って陰間を買いに行き、飯盛が床入りしたところ、相手の若衆が急にが痛いと言って肛交を拒んだのである。実際にの痛みに堪えきれなかったのかも知れないが、飯盛の巨根を見て逃げの手管を使ったのかも知れない。当時の銭湯(湯屋)では、臨時休業の時には、『釜破損に付今日休み』などと看板を出して知らせる。それを援用して、『釜破損』と『肛門故障(かまはそん)』とを掛けた洒落である。そこで、本句の場合も、いざ床入りをして、実行に及ぶ段になって、陰間のの疾患部を目にして、これでは痛くて可哀相だと行為を中止した和尚である。そして、そのために中止するとは、勇気に欠ける行為であると揶揄している。むしろ陰間の苦痛に同情したのであるから、それこそ勇気溢れる行為と断ずべきである。ところが、本句の趣向は『論語』の文句取りなのである。『為政第二』に、
 ()ヲ見テ()ザルハ、(いさみ)()(なり)(義ヲ見て(なさ)ザルハ、(ゆう)()キ也)
と言う言葉があって、これは『人として当然なさねばならぬ事と知りながらしないのは、真の勇気がないのである』という意に解されている。この文句を巧みに使って、それをパロディー化しただけの句である。(略)」
(「江戸破礼句 梅の寶匣」 蕣露庵主人著 三樹書房)


をもった仏達磨の支配うけ

(樽一一五8)
 

になるは承知和尚と小性の碁

(樽1177、一一七19・28)


()の神は弘法大師だと思ひ

「弘法大師は男色の祖だと。」(「川柳江戸の民間療法」)

「弘法大師が男色の道を開いた始祖だとすれば、痔の治癒を祈願する神仏も、この弘法大師だと思い込んでいる陰間の気持ちを言う。」(「江戸の色道-古川柳から覗く男色の世界」渡辺信一郎著新潮社)

(天七・十・二五)


の医者は諸人の尻で飯を喰ひ

「『咄し家は世間ンのあらで飯喰イ』(一〇〇・128)という句もあるが、口ならぬ尻で飯を喰うというくすぐり。」(小野眞孝著「江戸の町医者〈新潮選書〉」

(樽一〇〇150)


の神へお七何だか願をかけ

八百屋お七の恋人は、寺小姓だった。お寺は男色が盛んなため、あのお七も恋人を案じて願をかけるというもの

(樽一六五10)


の願にお七はこんきくたく也

「根気を砕くは色々と心を痛めること。八百屋お七が恋人である吉三郎の身を案じて。」(「川柳江戸の民間療法」)

(露丸 明三・貞1)


の神へ左ねじりの初穂銭

「賽銭を包んだ紙を左ねじりに。糞のことを左ねじりというのにかけての句。」(「川柳江戸の民間療法」)

「当時も
を患う人々が多くいて、最後の手だてとして病の快方を祈願して、霊験あらたかな神社へお参りした。江戸の各地に、の神様が存在し、噂が噂を呼んで参詣者で賑わった所もある。「初穂」は、その年初めて収穫した穀物などを、神仏へ奉納する事である。その習慣から、穀物の代わりに金銭を奉るのが、「初穂銭」である。当時の庶民たちは、お賽銭十二文を懐紙に捻り包んで奉納するが、の神様だけに縁のあるように「左捻じり」にする状況を言う。(「江戸のおトイレ」渡辺信一郎著 新潮社)

(樽一二九20・22)


の神を売った祟で尻を抱
 
の神「秋山自雲」が祀られている「山谷本性寺へ詣るとの口実で(売って)近くの吉原へ。その罰で遊女にふられて尻を抱いて寝る破目に。」(「川柳江戸の民間療法」)

(樽九八56、九十九94)


■一念を石にとゞめし
の薬

山谷本性寺の秋山自雲の墓。宝暦12黛山評(鈴木勝忠編著「続雑俳語辞典」明治書院)


■痔
の神の加護をも頼む陰間茶屋

「商売物の陰間が
にならぬようにと。」(「川柳江戸の民間療法」)

(樽一三二28)


の神の神木らしい児ざくら

(樽一三一6)


の神は神のうちでもいつち尻

の神だから一番どん尻だ、と」(「川柳江戸の民間療法」)

(樽七六36)


の神は水道尻と知たふり

(樽一四四3)


の神はびろうながらの願をきヽ

「『尾篭ながら』と断りを入れて。」(「川柳江戸の民間療法」)

(樽一一〇18)


の灸に釜屋艾はいつちきヽ
 
「句の釜屋(もぐさ)というのは」、小網町三丁目の釜屋治左衛門方から売り出した艾であり、(以下略)」、
「いっちきゝは一番よく効く。
と釜(男色)の連想。」(「川柳江戸の民間療法」)

(樽一二一乙15・45)


仏へ願なをつたら尻くらひ

尻食観音(しりくらいかんのん)は恩を忘れて後をかまわぬこと。」(「川柳江戸の民間療法」)

(樽七七26)


仏をひたすら念ず寺小性

仏は持仏のしゃれ。」(「川柳江戸の民間療法」)

(樽一〇六16)


持の大屋困つてるけつだん所

(樽一五〇30)


持の生酔歩行てく千鳥穴

(樽一〇六39)


持の盗人たれるうち夜があける

(樽八二11、八三58)


■尻の病にかつぱを川へ捨

「河童は尻子玉を抜くといわれるが、河童の好物である胡瓜(かっぱ)を投げ入れる。」(「川柳江戸の民間療法」)

(樽六六16)


■雪隠で蚊のいけにへに
持なり

持ちは、便所が長いからか

(樽一一一12・16)


■雪隠に治兵衛は尻をかヽへてる

「『治兵衛』は『
兵衛』と同義である。排便をしながら、痛みや脱肛を気遣うので、尻を抱えるようにして蹲踞している状況である。」(「江戸のおトイレ」渡辺信一郎著 新潮社)

(筥四11)


■相違あらざる
の状湯冶

痔疾と自筆。」(「川柳江戸の民間療法」)

(樽一二四別44)


■底倉へ菊の療治に
痔童(じどう)来る

「謡曲『菊慈童』のイメージである。紀元前、周の穆王に寵愛された小姓の菊慈童は、勘気を被り他郷に流され、菊の露を飲んで不老不死となったという伝説がある。穆王に寵愛されたということで、後庭華を提供したという認識と。『菊』が肛門の隠語であるから、男色に結び付けることが多い。そこで、底倉温泉へ『菊の療治』に
を患った若衆が来るという意味になる。」(「江戸の色道-古川柳から覗く男色の世界」渡辺信一郎著新潮社)

(樽一二〇25、一二八32)

の治療に温泉に行った。江戸時代最も有名なのが、箱根七湯のひとつである底倉温泉で、よく川柳にもうたわれている。
芳町とは、江戸時代に陰間茶屋があった場所で、その芳町の陰間が
の温泉療法のため底倉に来るということである。

次のような句がある。

○底倉の山駕籠(やまかご)(いた)んでる (一〇四16)

○底倉の湯女(ゆな)はいっそうわうわし (明二梅2)

○底倉で見た芳町の美少年 (一二三別26) 

○芳町の釜は箱根で鋳掛(いかけ)させ (五四28)

○底倉で鋳掛(いか)けて元の釜となり (別中20)

○京ことばに()れる底倉 (武十一12)

○底倉は寺方(てらかた)の名もよく覚え (宝十二義6)

(この底倉に関する上記の川柳、狂歌は、すべて「江戸の色道-古川柳から覗く男色の世界」渡辺信一郎著 新潮社から引用)

※底倉温泉と箱根七湯については、本ホームページ「痔を癒す温泉」「箱根七湯と七湯の枝折」でも紹介しています。


菊慈童に関しては、次のようなものもあります。

○お(かま)ぱくぱくにならないは慈童(じどう) (二八9ウ)

慈童(じどう)は、菊慈童(きくじどう)のことである。古代の中国、(しゅう)穆王(ぼくおう)に寵愛された待童であったが、ある時、王の枕を跨いだという罪で、南陽郡のレキ縣へ追放された。菊慈童はその地で菊の露を飲み続け、七百歳まで生きたと伝えられる。謡曲『菊慈童(きくじどう)』などによって、庶民たちはこの逸話を知っていた。『ぱくぱく』は、老いて歯の抜けた口が開閉する様子を言う俗語である。本句では、菊慈童の『菊』を抜かせて『慈童』と表現しているが、これを読む人々はすぐに『菊』を思い浮かべる。菊は菊座の意で、後庭華のことで、それは『お釜』と縁語である。陰間などの男娼は、十七八歳がいちばんの盛りで二十五歳頃になれば、男相手には不向きになる。その頃には、
痔疾などを患い、肛門も『ぱくぱく』として、締まりも無くなると言う。菊慈童は、不老のため七百歳まで稚児のままであったので、いくら年を重ねても『お釜ぱくぱくにならない」という訳である。同類語を使った句に、『お釜ぱくぱくを後家は()いに()る/天二礼4」というのがある。(「江戸破礼句 梅の寶匣」 蕣露庵主人著 三樹書房)


■湯冶場で馴染お八重と
兵衛さん

「おやえは黴毒の異称。花は鼻に通じ、八重梅の梅は黴に通ずるのでいうと『江戸語大辞典』にあり。
兵衛も持ちの擬人名で、梅毒との患者が湯冶場の馴染客である。」(「川柳江戸の民間療法」)

(樽一四一18)


■長雪隠淋兵衛殿か
平殿

(樽一一二23、一二三65、一二六60)


■難
しらずや鍛冶丁の達磨をば

「神田は鍛冶町に、屋根つき看板の上に達磨を飾った薬屋があった。五宝円という家伝薬の店だが、本来は性病の薬。これを
にも応用したのか。難は汝にかけたもの。」(鈴木昶著「江戸の医療風俗事典」)
「難
と汝の掛け言葉。面壁九年にを通わしたものか。」(「川柳江戸の民間療法」)

(樽一一八10)


■走り
裏衿(うらえり)を出す(けつ)の穴

「という凄絶な写実的な句もある。「走り
」は、出血を伴うであるとされるが、着物の『裏衿を出す』というのは、脱肛の様子を言う。褻《け》の世界を何とも凄い例えで描写している。諧謔(かいぎゃく)を通り越して、あまりにリアルである。」(「江戸のおトイレ」渡辺信一郎著 新潮社)

(樽一二九20・22)


■びんずるをもちあげて
持撫る也

びんずるは、「賓頭廬」で不動の意の梵語の音訳。羅漢の一人。頭髪が白く、まゆが長い。その像を手でなでて祈ると病気が治るという。(新明解国語辞典)
お寺の本堂などに置いてあります。
持は、持ち上げてお尻に触れないといけない。

(樽三六10)


■ひんずるをもちあげてなでる寺小性
 
(宝十三・礼4)


■芳町の仁者
を見てせざる也

芳町は、陰間茶屋が多くあった。

(樽九六20)


■淋兵衛と
兵衛どちらも長後架

「同想の『長雪隠淋兵衛か
平殿・一二二23』という句もあり、淋病とは長雪隠の定番である事が知られている。(略)淋病の者は残尿感があるため、早く切り上げるのが困難であり、の者は痛みに堪えながら、静かに時間を掛けて排出するために、長雪隠となるようである。(「江戸のおトイレ」渡辺信一郎著 新潮社)

(九大追福20)


■若殿の
ははへぬきのやまいなり

「という川柳がある。
 江戸時代には男色(男性の同性愛)が盛んであったようで、美貌のお小姓(こしょう)ならば、その対象とされたために
になったとも思えるが、若殿の場合は仮に男色を好んだとしても、肛門を用いての受身の性交は考えられない。従って、若殿のは、うまれつき(はえぬき)の病であるとの意である。」(小野眞孝著「江戸の町医者」〈新潮選書〉)

(樽二1)


■女の
まつたく前のひゞきなり

(安九・桜3)


■わる堅い屎に
持の儒者困り

(樽一五二3)


■師の恩の身にしみじみと
の痛み

「師匠から修行の手ほどきを受け、仏学も身に付くようになるのは、まさに師の恩であるが、肛門に受けた
痔疾も「師の恩」の一端ということである。」(「江戸の色道-古川柳から覗く男色の世界」渡辺信一郎著新潮社)

(一二一乙28)


■師の恩は今に忘れぬ
の痛さ

{少年の時からの修行の厳しさをしみじみと述懐すると、仏学の蓄積向上の辛さとともに、師匠から蒙った
の痛みも、一入深く偲ばれるのである。」(「江戸の色道-古川柳から覗く男色の世界」渡辺信一郎著新潮社から引用)

(一〇六9)


■お住持(じゆうじ)の脚気は治り小僧は
()

「という、そのものずばりを言った句がある。寺の住職の要求通りに実践したところ、見事に住職の脚気は全快したが、そのため小僧は
持ちになってしまったという現実である。」(「江戸の色道-古川柳から覗く男色の世界」渡辺信一郎著新潮社)

(潘山瓦長両評・享保中期)


■色男ちっとかそっと
持ち(なり)

「肛交をされ続けていると、
痔疾に陥ることは常識であった。そこで、色男は男との肛交の経験者であるため、少しはの気があるという訳である。」(「江戸の色道-古川柳から覗く男色の世界」渡辺信一郎著新潮社)

(明二桜4)


一部原本と異なる表記があります。

BACK
痔プロ.com